「大東亜戦争」(太平洋戦争)末期における、都道府県別の空襲を受けた回数について、簡単にまとめてみました。
あの戦争、日本列島はどれだけ襲われた?都道府県別 空襲回数
第二次世界大戦末期、日本本土は米軍を中心とする連合国軍による激しい空襲にさらされました。連日連夜、爆弾が落とされ、多くの都市が焼け野原になり、尊い命が失われました。
しかし、その被害の「回数」は、地域によって大きく異なっていたんです。
戦況や都市の重要度、軍事施設・工場の有無などによって、爆撃の標的になる頻度が変わったんですね。
残念ながら、全都道府県の正確な空襲回数を網羅した統一的な公的データを見つけるのは難しいのですが、各地の資料や記録から読み取れる傾向を基に、特に被害が大きかった地域や特徴的な地域の情報を見ていきましょう。
被害が集中した「空襲多発地帯」
やはり、日本の中枢機能や大都市、重要な軍需工場が集まっていた地域への空襲回数は突出しています。
1. 東京都:100回超え!
空襲回数が最も多いと推定されるのが東京都です。特に東京の区部だけでも60回以上、伊豆諸島・小笠原を含めた東京都全体では100回を超えたという記録もあります。
- 初期の小規模な空襲から、昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめとする大規模な絨毯爆撃まで、日本の首都として標的になり続けました。
2. 大阪府・愛知県・神奈川県・兵庫県
東京に次ぐ大都市や、軍需産業の一大拠点があった地域も、もちろん例外ではありません。
- 大阪:昭和19年12月から終戦直前までに、39回の来襲(うち7回が大空襲)の記録があるなど、西日本の中心として激しく攻撃されました。
- 愛知(名古屋):航空機産業など軍需工場が集中していたため、戦略爆撃の最重要標的の一つでした。頻繁かつ大規模な空襲を受けました。
- 神奈川(横浜):港湾施設や工業地帯があり、度重なる空襲を受けました。
- 兵庫(神戸):造船所などの軍需施設があり、特に神戸大空襲など、何度も炎に包まれました。
原爆投下と終戦間際の攻撃
回数とは別に、被害の深刻さを語る上で欠かせないのが、原爆が投下された広島県と長崎県です。原爆は単発の空襲でしたが、その被害規模は筆舌に尽くしがたいものです。
また、終戦直前の時期には、これまであまり空襲を受けていなかった地方の中小都市も標的となり、一晩で壊滅的な被害を受ける事例も多発しました。
北日本や日本海側の状況
- 北海道:空襲回数は11回という記録があり、他の大都市圏と比べると回数は少ないものの、終戦間際には室蘭などの工業地帯や、鉄道への機銃掃射などを受けました。
- 日本海側:比較的空襲は少なかったとされますが、新潟県長岡市のように大規模な空襲を受けた都市もありますし、富山県では市街地の99.5%が焼失するという壊滅的な被害を受けました。
回数だけでは語れない、それぞれの「戦場」
空襲の「回数」は都市の重要度を示す一つの指標ですが、一回の爆撃で街のほとんどが破壊された都市もあれば、回数は多くても被害が分散した都市もあります。
重要なのは、これらの「数字」の背後には、当時の人々が経験した恐怖や悲しみ、そして失われた多くの命があるということです。
この戦争の記憶を風化させないためにも、私たちが住む街がどれだけ激しい戦禍に巻き込まれたのか、改めて知ることはとても大切ですね。
※上記の情報は、各自治体や戦争関連資料を基にしたものであり、空襲の定義やカウント方法が異なる場合があるため、厳密な回数は変動する可能性があります。
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