- 坂本龍馬 名言
- 何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり
- 世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る
- 義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり
- われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。
- 文(ふみ)開く衣の袖は濡れにけり 海より深き君が美心(まごころ)
- 丸くとも 一かどあれや人心 あまりまろきは ころびやすきぞ
- 日本を今一度 せんたくいたし申候
- 恥といふことを打ち捨てて 世のことは成るべし
- 時勢に応じて自分を変革しろ
- 感涙とどめず、遥か江戸の地より拝し、龍馬かならずこの恩に報うべし、と天地神明に誓ふ
- 事は十中八九まで自らこれを行い 残り一、二を他に譲りて功をなさむべし
- 世界の海援隊でもやりますかな
- 俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。
- 人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
- 万事、見にゃわからん。
- 奇策とは百に一つも用うべきではない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。
- 夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る。
- 人生は一場の芝居だというが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、そのうえで芝居をするのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ。
- わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。
- 人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。
- 疲れちょると思案がどうしても滅入る。よう寝足ると猛然と自信がわく。
- 時勢は利によって動くものだ。議論によっては動かぬ。
- 人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
- 古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。
坂本龍馬 名言
何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり
世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る
義理などは夢にも思ふことなかれ 身をしばらるるものなり
われ、はじめて西郷を見る。その人物、茫漠としてとらえどころなし。ちょうど大鐘のごとし。小さく叩けば小さく鳴り。大きく叩けば大きく鳴る。
文(ふみ)開く衣の袖は濡れにけり 海より深き君が美心(まごころ)
丸くとも 一かどあれや人心 あまりまろきは ころびやすきぞ
日本を今一度 せんたくいたし申候
恥といふことを打ち捨てて 世のことは成るべし
時勢に応じて自分を変革しろ
感涙とどめず、遥か江戸の地より拝し、龍馬かならずこの恩に報うべし、と天地神明に誓ふ
事は十中八九まで自らこれを行い 残り一、二を他に譲りて功をなさむべし
世界の海援隊でもやりますかな
俺は議論はしない、議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。
人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある。
万事、見にゃわからん。
奇策とは百に一つも用うべきではない。九十九まで正攻法で押し、あとの一つで奇策を用いれば、みごとに効く。奇策とはそういう種類のものである。
夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る。
人生は一場の芝居だというが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、そのうえで芝居をするのだ。他人が舞台を作ってくれやせぬ。
わずかに他人より優れているというだけの知恵や知識が、この時勢に何になるか。そういう頼りにならぬものにうぬぼれるだけで、それだけで歴然たる敗北者だ。
人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ。
疲れちょると思案がどうしても滅入る。よう寝足ると猛然と自信がわく。
時勢は利によって動くものだ。議論によっては動かぬ。
人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。
古来、英雄豪傑とは、老獪と純情の使いわけのうまい男をいうのだ。
坂本龍馬
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
国: 日本・土佐藩(現在の高知県高知市)
生: 1836年1月3日
没: 1867年12月10日(享年31)
1836年1月3日、土佐国土佐郡上街本町(現:高知県高知市上町)の郷士(下級武士)坂本家に次男として生まれる。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、非常に裕福な家庭だった。
龍馬が生まれる前の晩に、母が龍が天を飛ぶ夢を見たことにちなみ、龍馬と名づけられる。
10歳のときに母が死去。龍馬は父の後妻に養育された。
少年時代の龍馬は気弱な性格であり、いじめにあって抜刀騒ぎを起こし、漢学の塾を退塾させられたという。以後、姉の乙女が武芸や学問を龍馬に教えた。
12歳で剣術道場に入門して小栗流を学び、17歳で小栗流和兵法事目録を得る。同年、龍馬は剣術修行のために江戸に出て、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となる。
龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の1853年7月、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航。龍馬も臨時招集されて品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。
1854年、18歳の龍馬は江戸修行を終えて土佐へ帰国。翌年に父が他界し、坂本家の家督は兄が継承。
1856年、再び剣術修行のため江戸に出て、武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿。1858年に土佐へ帰国する。
1861年、武市半平太が土佐藩を尊王攘夷の方向へ導くため、土佐勤王党を結成。龍馬も加盟する。しかし、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができず、1862年に龍馬は土佐藩から脱藩。
江戸に到着した龍馬は小千葉道場に寄宿し、長州藩の久坂玄瑞(1840~1864)、高杉晋作(1839~1867)らとも交流。その後、勝海舟(1823~1899)の門人となる。
1865年、29歳の龍馬は貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。
1866年には、雄藩として大きな影響力をもつ薩摩藩(西郷隆盛ら)と長州藩(木戸孝允)の同盟を斡旋。また、江戸幕府の終焉となる1867年の大政奉還の成立に尽力。倒幕および明治維新に大きな影響を与えた。
しかし、大政奉還成立の1ヶ月後の1867年12月10日、龍馬は近江屋事件で暗殺され、31年の生涯を閉じた。
坂本龍馬の人生
坂本 龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐藩城下(現在の高知県高知市)の土佐藩郷士、坂本八平と母・幸の次男として生まれます。竜馬は5人兄弟の末っ子で、兄の権平とは21歳の年の差があり、千鶴、栄、乙女という3人の姉がいました。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士階級にあたる郷士という身分でしたが、曾祖父の時に本家から多額の財産を分与されて独立していたので、かなり裕福な家庭でした。
幼少期
竜馬が生まれる前の夜に、龍が天を飛ぶ夢を母が見て龍馬と名付けたと言われていますが、幼少期の龍馬は空を飛ぶ龍とはかけ離れた子供でした。12歳頃まで寝小便をし、泣き虫で甘えん坊、性格もどちらかというと気弱な子供だったそうです。
12歳の頃に、漢学の楠山庄助の塾に入学しましたが退塾処分となり、その後は「坂本家のお仁王様」と呼ばれた3つ上の姉である乙女が、継母の伊予と共に、武芸や学問を龍馬に教え育てました。以後、竜馬の中で乙女姉さんは、特別な存在として生涯にわたり影響を与える存在となります。
武術に没頭
13歳の頃から高知城下の日根野弁治道場に入門して小栗流を学び、勉学とは違いぐんぐんと上達をして、18歳の時には「小栗流和兵法事目録」を与えられるまでになりました。
さらなる高みを目指して1年3か月の遊学許可を得て江戸へ出立、北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となります。この江戸への出立の際に、父・八平より「修行中心得大意」という訓戒状を授けられ江戸へ向かいました。
千葉道場で塾頭になる
江戸での龍馬は剣術だけではなく兵学も学び、佐久間象山の私塾にも入学します。
ペリーの黒船来航で、藩の江戸屋敷の臨時守備に付き、異国の脅威を目のあたりにして1度目の遊学を終え帰国しました。土佐に帰り日根野道場の師範代を務めながら、ジョン万次郎と親交のある絵師、河田小龍を訪ねて国際情勢について学び、開国の必要性や海運の重要性を教えられ感銘を受けます。
安政3年(1856年)9月に2度目の江戸修業が許され再び上京、安政5年(1858年)1月、「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けら千葉道場で塾頭を務めました。
安政の大獄
竜馬が2度目の帰郷をした頃、土佐藩内では大きな動きがありました。井伊直弼が幕府大老に就任し、開国を強行し反対派の弾圧に乗り出します。(安政の大獄)
この当時、土佐藩主であった山内容堂は、幕政改革にも力を入れて一橋慶喜を推戴していたため、安政の大獄により家督を養子・山内豊範に譲り隠居謹慎する事態になっていました。
しかし、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される事件が土佐に伝わると議論が沸き起こり、尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となります。翌年、龍馬の親戚で友人でもある武市半平太は江戸で長州、薩摩と会合をし各藩の力で朝廷の権威を強化し、幕府に対抗することで盟約を交わしました。
この同盟をきっかけに半平太は、「土佐勤王党」を結成し、竜馬も土佐勤王党に入党します。
脱藩
文久2年(1862年)1月に竜馬は剣術修業を名目に、半平太の書簡を預かり長州の久坂玄瑞を訪ねました。
萩に10日ほど滞在して松下村塾の面々とも面会し、玄瑞から「もはや、諸侯たのむに足らず、公卿頼むにたらず。この上は、草莽崛起するほかない。大儀のためなら、藩が滅亡しても藩の枠を超え決起しなくてはいけない」と説明を受けて衝撃を受けます。
何かしら玄瑞から影響を受けたのか、その後帰国して文久2年(1862年)3月24日に沢村惣之丞とあっさり脱藩してしまいました。
勝海舟との出会い
脱藩した龍馬は同年9月に江戸に入り、12月に松平春嶽の紹介状を携え開国論者の勝海舟を斬るために訪ねますが、勝から世界情勢と海軍の必要性を聴かされ大いに感服を受けその場で弟子入りを志願します。
その後、龍馬は勝が幕府の「海軍操練所」の設立の認可を受けると準備のために奔走し、元治元年(1864年)、神戸海軍操練所が正式に開設され海軍塾塾頭に任ぜられます。
しかし、わずか数か月の間に土佐では土佐勤王党の粛清、長州では下関事件が起こり、とうとう八月十八日の政変で長州が御所から追放され政局までも一変してしまいました。
激流の波は止める事ができず、池田屋事件、禁門の変、馬関戦争、長州討伐と、長州藩にとっては四面楚歌の様相が強くなっていきます。いくつかの出来事に海軍塾生が加わっていたことで、勝は解任されて江戸召喚を命ぜられ、出立する際に龍馬や塾生達を西郷隆盛と小松帯刀に頼み、大阪の薩摩藩邸で保護を頼みました。
亀山社中と薩長同盟
龍馬と塾生達は、航海術を必要とする薩摩藩から出資してもらう形で亀山社中を結成しました。この亀山社中は、私設海軍、貿易、商社などの総合的役割を果たす組織で、日本初の株式会社のようなものです。
最初の大仕事となったのが、八月十八日の政変と禁門の変以後、水と油のような関係にあった薩長両藩の利害一致による和解の周旋でした。
薩長とも欧米列強の実力を思い知らされ幕藩体制のままでは立ち行かぬことを理解しており、長州は討伐に備えての武器の購入、薩摩は兵糧の確保という物質的な取引と共に、討幕の部分で利害が一致していたのです。
龍馬と中岡慎太郎を中心に薩長間を奔走、一度は西郷隆盛の会談直前のキャンセルなどもありましたが、慶応2年1月21日(1866年3月7日)薩長同盟を締結させました。
この後、亀山社中は龍馬が土佐藩より脱藩を許され、土佐藩下に置かれることになり海援隊と名称を変更、龍馬が隊長に就任します。
大政奉還
海援隊隊長就任後ほどなくして、いろは丸沈没事件がおこりました。
龍馬は、長崎奉行所で紀州藩側の過失を追及し、賠償金を受け取ることで決着させます。
その頃、京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤象二郎は容堂に京都へ呼ばれていました。この事件の談判を終え、龍馬は後藤象二郎と夕顔丸に乗船し、長崎から兵庫へ向います。
大政奉還論を山内容堂に進言するため、船の上で後藤に政治綱領を提示、この提示はのちに海援隊士に成文化され、船中八策とされました。この船中八策を元に大政奉還論は土佐藩論となり、山内容堂が徳川慶喜に大政奉還論を建白します。
坂本龍馬の暗殺
慶応3年11月15日(1867年12月10日)坂本龍馬は中岡慎太郎、山田藤吉と共に京都近江屋の2階で複数の刺客に襲われ暗殺されました。
実行犯について、明治維新後に元見廻組の今井信郎が自供、禁固刑になっていることから一番有力な説だとされているのですが、自供以外に現場に残された鞘のなぞなどの憶測から現在も真犯人説、黒幕説など議論され続けています。
コメント