人は聞いた言葉で心が創られる幕末編 西郷隆盛

幕末編

「維新の三傑」の一人・西郷隆盛(さいごうたかもり)は、武士から軍人となり討幕という偉業を成し遂げ、明治という新しい時代を築いた人物としてあまりにも有名です。

西郷隆盛は「敬天愛人( けいてんあいじん )」という言葉を座右の銘にしており、現代でもこの「敬天愛人」という言葉を社是・社訓にし、西郷隆盛を尊敬する経営者が多いとのことです。座右の銘以外にも西郷隆盛は、名言や格言・漢詩や書を数多く後世に残しました。その数多ある中から、西郷隆盛の名言や格言を抜粋して紹介したいと思います。また、辞世の句についても名言や格言と同じく意味も合わせて調べてみました。

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  1. 西郷隆盛
  2. 西郷隆盛の名言
      1. 敬天愛人。
      2. 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。
      3. 不爲兒孫買美田(児孫のために美田を買わず)
      4. 彼ら貧民の子弟こそ、真の国家の柱石である
      5. 天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕らない。
      6. 徳盛んなるは官を盛んにし、功盛んなるは賞を盛んにする。
      7. 耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)
      8. ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて
  3. 西郷隆盛の人生
    1. 生まれ
    2. 「郷中教育」を受けた
    3. 人材に恵まれていた人生
    4. 学問の道へ
    5. 島津久光への敵意
    6. 島津斉彬との出会い
    7. 「御庭方役」
    8. 妻との離別
    9. 島津斉彬の影響力を拡大
    10. 入水自殺未遂
    11. 殉死を考える
    12. 入水自殺を試みる
    13. 潜伏中の奄美大島での生活
    14. 再婚
    15. 薩摩への帰国
    16. 島津久光と関係悪化
    17. 藩士たちの暴走
    18. 天命に素直に従い、天命によって死ぬ
    19. 寺田屋事件の勃発
    20. 二度目の遠島
    21. イギリスと関係悪化
    22. 尊王攘夷論の台頭
    23. 薩英戦争の勃発
    24. 長州藩を抑制
    25. 薩摩藩の重職に就任
    26. 禁門の変
    27. 勝海舟との出会い
    28. 三回目の結婚
    29. 長州討伐の平和的解決
    30. 薩長同盟
    31. 第二次長州征討
    32. 大政奉還と王政復古
    33. 大政奉還
    34. 王政復古の大号令
    35. 江戸無血開城
    36. 鳥羽伏見の戦い
    37. 引退
    38. 留守番政府
    39. 廃藩置県の決行
    40. 新政府と対立し辞職
    41. 西南戦争
    42. 城山にて散る
    43. 関連

西郷隆盛

西郷隆盛は  薩摩藩士で幕末、明治維新の元勲、武士であり軍人であり政治家であり討幕の指揮を執り薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、江戸城無血開城を実現した一人です。

明治新政府では、参議・陸軍元帥となるが征韓論で大久保利通などと対立、下野して鹿児島へ帰郷し西南戦争を起こすも新政府軍に敗れ、城山で自刃しました。

西郷隆盛の名言

敬天愛人。

【意味】天を敬い、人を愛する。

西郷隆盛はこの言葉をとても好んで使い、南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)西郷隆盛の遺訓21条に出てきます。

道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は「敬天愛人」を目的とし、身を修(しゅう)するに 克己(こっき)を以て終始せよ。

敬天愛人を企業理念ととらえ社是として使う会社は多いです。代表的な企業に京セラが社是としています。

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽て人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。

【意味】成すべきことがある時、己の信念のみで天を相手に行動しなくてはいけない。成すべきことが上手くいかなかった時、人を咎めたり非難するのではなく、己の誠が足らなかったことが原因だと考えなくてはならない。

不爲兒孫買美田(児孫のために美田を買わず)

【意味】志を成すためには常に全ての物を犠牲にする覚悟でいなくてはないけない、故に子孫のために立派な田畑を買うような愚かなことはしないのが我が家の家訓であり私の生き方である。

この漢詩は西郷隆盛が大久保利通に贈った漢詩の中の一つで、子孫に財産を遺そうと私利私欲に走る当時の高官を批判する意味も込められています。

彼ら貧民の子弟こそ、真の国家の柱石である

【意味】道端であくせくと働く貧しい人々こそ真の国の柱石であり、我々が日々生活できているのは貧しい彼らのおかげである。

この言葉は西郷隆盛の夫人が良い田畑を勧められて西郷隆盛に尋ねた際に、西郷隆盛が夫人に言った言葉で、最初に夫人に対して子供の中に愚かな者がいるのか、どの子供が一番魂が入っていないのかと夫人に問いただしました。

答えに困った夫人に対して、西郷隆盛は、「自分達が何不自由なく暮らせているのは貧しい人々の税金のおかげであることを忘れてはいけない、良い着物、良い家、良い暮らしをしなくても十分暮らせている。自分達の子供の中に愚かな者がいたり、魂の入らない者がいれば田畑も買って残してやらなくてはいけないけれど、幸い皆普通に元気な子供たちであるのだから、財産などに頼らず生活くらいは自分達で自活させなくてはならない」と諭したという背景があります。

天の道をおこなう者は、天下こぞってそしっても屈しない。その名を天下こぞって褒めても驕らない。

【意味】世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな。

徳盛んなるは官を盛んにし、功盛んなるは賞を盛んにする。

【意味】徳のある人に地位を与え、功績がある人には褒賞を与えろ。

中国最古の歴史書「書経」に「徳さかんなるは官をさかんにし、功さかんなるは賞をさかんにす。」という言葉が記されており、この一説を西郷隆盛が説いたものだと思われます。

耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)

【意味】梅の花というのは、冬の雪や厳しい寒さを耐えるからこそ初春に美しい花を咲かせ、かぐわしい香りを発するのである。大成するには忍耐が必要で、全ての事が無駄ではなく後に見事に結果となって花開くであろう。留学する甥の市来政直(いちきまさなお)に送った漢詩の一節です。

ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて

【意味】道も命も二つとないが、波が立とうが風が吹こうがこの小船に乗り逝くしかない。安政の大獄で命を狙われた僧侶、月照とともに錦江湾に入水自殺を図ろうとした時に西郷隆盛が詠んだ辞世の句です。しかし、西郷隆盛だけが生き残る結果となりました。

西郷隆盛の人生

幕末から明治維新にかけて活躍した人物として、必ず挙がる名前が西郷隆盛だとおもいます。倒幕から明治維新の中心人物として新たな時代を作った英傑であり、西郷隆盛が成し遂げてきた歴史的偉業の多さに驚きました。

生まれ

1828年1月23日、鹿児島の下加治屋町に、西郷吉兵衛の長男として西郷隆盛は生まれます。西郷家の家柄は、下から2番目の身分である下級藩士でした。

「郷中教育」を受けた

西郷隆盛は、当時の薩摩藩で行われていた独特な教育法である「郷中教育」というものを受けていました。「郷中教育」とは、子供達が先輩から教わり、ケーススタディなどを元に実践力を積んだ自立型の教育法です。これにより、西郷の類稀なる政治力や交渉力、判断力の基礎を築くことができたと言われています。

人材に恵まれていた人生

ちなみに、西郷隆盛が生まれた下加治屋町は江戸時代の下級武士の居住地区ですが、なんとこの町から、西郷と共に倒幕と明治維新を成し遂げる大久保利通をはじめ、日露戦争で勝利を導く東郷平八郎、大山巌、首相となる山本権兵衛など、多数の人材を輩出することになります。たった一つの町からこれだけ有力者を生み出したというのも驚きですが、この町で行われた郷中教育はそれほど優れた教育法だったのでしょう。

学問の道へ

ある時、西郷は他の郷中の者と西郷の友人との間で起こった喧嘩を仲裁しようとした際、他の郷中の者が抜いた刀が西郷の右腕の神経を傷つけてしまいます。これにより刀を持てなくなってしまった西郷は、薩摩藩士の誇りだった武術を諦め、学問の道を志します。

島津久光への敵意

西郷が郷中教育のリーダー役である二才頭になってから3年後、「お由羅騒動」という、次の薩摩藩主を島津斉彬と島津久光のどちらにするかで揉めた事件が起こりました。この騒動により、島津斉彬を次の藩主として推していた赤山靭負が切腹することに。西郷は赤山靭負と親しい間柄だったため、このお由羅騒動によって、次の藩主は島津斉彬が就任するよう望むようになったと言います。一方で、西郷は島津久光に対して敵意を抱くようになり、これが後の二人の関係に深い溝を作ることになります。

島津斉彬との出会い

お由羅騒動の後、最終的に藩主の座を勝ち取ったのは島津斉彬でした。この島津斉彬は「幕末の四賢候」と呼ばれるほど頭の切れた名君で、西郷隆盛や大久保利通などの才能を見つけ、それを育てた人物です。

「御庭方役」

1853年、ペリーの黒船艦隊が浦賀へ来航し、日本へ開国を迫るという出来事が起こります。

当時の幕府はこれら外交問題に関する対処法などを、幕府外からも意見を求めるようになっており、外国の武力に脅威を感じていた島津斉彬も積極的に意見を伝えるなど、幕府の政治に深く干渉するようになりました。

この時、早くから西郷の才能を感じていた島津斉彬は、西郷が斉彬の道腕として思う存分活動できるよう、「御庭方役」という役職を与えます。これにより、西郷は江戸で身分が高い者と自由に接することができるようになり、思想家・橋本左内、学者・藤田東湖、天狗党の首領・武田耕雲斎など一流の人物と交流を深めることで、その政治力を磨いていきます。特に、橋本左内とは、のちに一橋慶喜を将軍にしようと共に協力し合う仲となり、西郷が亡くなった後の遺品にも、佐内からの手紙が大事に保管されていたそうです

妻との離別

西郷は1851年に最初の妻である須賀と結婚しています。その後、西郷の祖父や両親が立て続けに亡くなり、西郷も御庭方として江戸に出ているため、極貧生活の中、須賀一人で西郷家の兄弟の面倒を見ていました。

最終的には須賀は体を壊してしまい、実家である伊集院家に引き取られ、西郷とは離婚しました。

最後は円満離婚ということでしたが、西郷は「こちらこそ申し訳ない」と言い、この離婚を一生後悔していたと言います。

島津斉彬の影響力を拡大

1856年、島津斉彬の養女である篤姫が第13代将軍・徳川家定に嫁ぎます。

斉彬の意図はこうです。まず、篤姫から夫の家定に働きかけて、次の第14代将軍を徳川慶喜にします。そうすることで公武合体を図り、開国による富国強兵を進め、諸外国に対抗できる日本を作り上げようというものでした。この時も西郷は斉彬の手足となって活動します。

入水自殺未遂

徳川慶喜を次の将軍へと考えていた島津斉彬でしたが、新しく大老に就いた井伊直弼は、慶喜ではなく慶福(家茂)を第14代将軍にします。そして井伊は安政の大獄により慶喜の一橋派を弾圧し、斉彬は将軍家の嫡子争いに破れます。

殉死を考える

激怒した斉彬は抗議のために江戸へ兵を挙げようとしますが、その準備の段階で急死。理由はコレラと言われていますが、あまりに突然の死だったため、暗殺されたのではないかという説もあります。

尊敬する斉彬が亡くなったことに大変ショックを受けた西郷は、主人の後を追って殉死しようとしますが、徳川慶喜を次期将軍にしようとする過程で親しくなった月照に諭され、思いとどまります。

入水自殺を試みる

井伊直弼による安政の大獄は、一橋派を推していた月照の身にも迫り、西郷と共に薩摩藩へ逃げ落ちます。

しかし、薩摩藩にとっては幕府に狙われている月照を匿う利点がなかったので、月照を「日向送り」にするよう、西郷に命じます。これは一見、月照を日向に匿うと見えますが、真意は日向へ向かう途中で月照を斬りすてよという命令だったのです。

旧知の月照を斬ることなどできず、藩の命令に背くこともできなかった西郷は、日向へ向かう船上から月照と一緒に飛び降り、入水自殺を試みます。しかし、亡くなったのは月照だけで、西郷は同志に救われることになります。この時から、西郷は「自分は一度死んだ身だが、生き残ったのはこの世で何か成すべきことがあるからだ」と考えるようになります。

薩摩藩は、亡くなったことになっている西郷を幕府の目から隠すために、彼をしばらく奄美大島へ潜伏させることにしました。

潜伏中の奄美大島での生活

奄美大島では菊池源吾と名前を変えた西郷隆盛。今まで中央政治のど真ん中で活動してきた彼にとって、この島での生活は、最初は我慢ならないものだったようです。

薩摩藩からは米を支給され、大久保利通らの同志たちと手紙のやり取りも出来たため生活には困りませんでしたが、風習が異なる現地の人々に馴染めず、夜中に奇声をあげるなど精神状態は不安定でした。

再婚

しかし、島民から頼まれて子供達に学問を教えているうちに徐々に落ち着いていき、1859年には島の有力者の娘である愛加那と結婚し、息子の菊次郎と娘の菊草をもうけます。

西郷の第二の妻・愛加那は当時の制度で「島妻」と呼ばれるものだったため、妻は薩摩に連れ帰ることはできませんでしたが、子供は薩摩で教育を受けさせることができました。

西郷は大久保利通らと手紙のやりとりを続け、中央政治の情報収集をしていましたが、島の子供に教育を教えたり、自分の子供と一緒に過ごしたりと、この時期の西郷は穏やかに過ごしていたそうです。

薩摩への帰国

当時、薩摩では島津斉彬の死後、弟の島津久光が藩の実権を握っていました。かつての「お由羅騒動」で斉彬の対抗馬となっていた久光のことです。

久光は兄の斉彬が目指していた「公武合体」を自分が江戸で成し遂げようとしていました。

具体的には、兵と共に京都へのぼり、朝廷から幕府を改革するための許可を得た後、実際に幕府へ改革を迫るといった筋書きです。朝廷と幕府の間を斡旋することで、国政へ乗り出そうと考えたのですね。

そこで、確かな政治手腕を持つ西郷を人材として抜擢するよう大久保利通が久光へ進言します。そして約3年の潜伏期間を経て、西郷は奄美大島から薩摩へ帰還することになるのです。

島津久光と関係悪化

しかし、当初の西郷はこの久光の上京計画に反対でした。準備がまだ十分に出来ておらず、久光の上京によって何か事件が起こる可能性あると考えたからです。

西郷は久光に対して「地五郎(田舎者)で政治経験に疎いから、この計画は無理でしょう」とまで言い放ちます。

一家臣のこの発言に久光は何とか怒りを抑えますが、それ以降、西郷と久光の関係は悪化の一途をたどることになります。久光の計画を頑なに拒否する西郷に対して、大久保利通は粘りつよく説得を続け、それに心を動かされた西郷はついに協力をすることになります。

藩士たちの暴走

先ほども書きましたが、島田久光が公武合体のために兵を連れて江戸へ向かう目的は、あくまで平和的に幕府と朝廷の関係を取り持ち、幕政改革をすることでした。

しかし、全国各地の脱藩浪士や薩摩藩内の急進派藩士が、この久光の計画を、武力を用いた倒幕計画だと勘違いし、京都や大阪に続々と集結していました。

西郷は「久光の一行が下関に到着するまで待機」という命令を受けていたものの、過激藩士たちの状況が予想以上に緊迫していたため、急遽命令を無視して大阪へ向かいます。

この時、西郷は過激派の行動を沈静化させるために尽力していたのですが、久光は命令無視をした西郷に激怒し、かつ、その過激派を西郷が扇動しているという誤った報告を受けたため、西郷に厳罰を与える決意を固めます。

天命に素直に従い、天命によって死ぬ

久光の決意の固さを見て、大久保利通は西郷が切腹を申し付けられるかもしれないと考えます。そして藩から罪を言い渡される前に、今回の計画の協力を申し出た自分も西郷と一緒に切腹することを彼に伝えます。

しかし西郷は「天命に素直に従い、天命によって死ぬ」という、月照の死によって得た敬天愛人の思想から自害を拒否し、自分だけでなく利通までいなくなってはこれからの日本はどうするのだと言い、利通を諌めます。この言葉は西郷隆盛の名言として有名です。最終的に、宿で謹慎していた西郷は捕縛され、久光の命令によって切腹ではなく二度目の遠島という罰を受けることになりました。

寺田屋事件の勃発

西郷の抑えがなくなったことで、過激派たちは旅館・寺田屋に集結し、爆発寸前の状態になります。

そこで、久光は奈良原喜八郎など剣技に長けた家来を送り、過激派藩士の鎮圧を命じます。しかし、過激派たちは収まらず、結果として同じ薩摩藩の中で同士討ちをする寺田屋事件が勃発しました。

最終的には過激派の行動を抑えることができ、この迅速な鎮圧によって、久光は朝廷から信頼を勝ち取ることができます。

二度目の遠島

久光の激怒に触れ、徳之島への遠島を申しつけられた西郷。1回目の遠島とは違い、今回は罰としての遠島です。西郷は引退するつもりで、家族を島に連れ出そうと考えますが、それも叶いません。

死罪の次に重い罪と言われた、沖永良部島への遠島が決まったのです。

牢屋で二人の番人に見張られており、雨風にさらされ非常に厳しい環境だったため、西郷は日に日に弱っていきました。それを気の毒に思った監察役の土持政照が、私財を投じて西郷の獄舎を改築するなど生活環境を改善し、西郷は土持によって救われることになります。後に二人は義兄弟の契りを交わす間柄になります。

イギリスと関係悪化

一方の久光は、朝廷から幕府改革の勅命(許し)を得ることができ、当時の第14代将軍・徳川家茂もその勅命に従います。こうして、将軍後見職に一橋慶喜を、政事総裁職に松平春嶽を任命することとなり、久光の願望はいったん成就されます。

しかし久光が意気揚々と江戸から帰還する途中、観光をしていたリチャードソン含む4人のイギリス人が馬で久光の行列に混じり込んでしまい、随行していた薩摩藩士に切り捨てられるという「生麦事件」が勃発します。

この生麦事件でリチャードソンが亡くなったことで、翌年には薩摩藩とイギリスの間で「薩英戦争」が起こることになります。

尊王攘夷論の台頭

当時、長州藩では、安政の大獄で死去した吉田松陰の弟子である松下村塾の塾生らを中心に尊王攘夷論が巻き起こります。尊王攘夷とは、簡単に言うと「天皇を尊び、外国を排除する考え方」です。

久光が江戸に行っている間に、この尊王攘夷論が京都で広まってしまい、久光の意図しない結果に繋がってしまうことになります。当時の久光は近々起こるとされていた薩英戦争の準備のため、すぐに薩摩に戻らなければならず、京都でこの尊王攘夷論を火消しする時間はありませんでした。

薩英戦争の勃発

イギリスは生麦事件の犯人の引渡しと損害賠償を薩摩に要求しましたが、薩摩側は犯人の受け渡しを拒否。それによって薩英戦争が勃発し、イギリス側と薩摩側双方が痛手を負い、勝敗不明のまま終わりを迎えます。

薩摩側はこの戦争によってイギリスの軍事力の高さを知り、尊王攘夷の無謀さを実感。以降は、イギリスとは急速に友好関係を築き、両者で貿易や留学などをするようになります。

長州藩を抑制

薩英戦争が起こっていた当時、京都では長州藩が打ち立てた尊王攘夷論が広がっており、すでに朝廷も長州藩の意のままの状態になっていました。

それを打開するため、利害が一致した薩摩藩と、松平容保率いる会津藩が協力し、「八月十八日の政変」と呼ばれるクーデターを起こします。これにより、京都の尊王攘夷派を一掃し、久光は勢力を巻き返します。

薩摩藩の重職に就任

久光は再び朝廷と幕府の間を取り持とうとしますが、当初久光と同じく開国派だった一橋慶喜が意見を変え公武合体に反対します。これに対して薩摩藩は打開策を見出せなかったため、西郷を沖永良部島から呼び戻そうとする動きが起こります。

しかし、誰もが久光は西郷に深い憎しみを持っていることを知っていたため、久光のお気に入りの家臣である高崎左太郎、高崎五六を通じて西郷の召喚を彼に提案。西郷を必須とするこの状況に、久光は銀の煙管(きせる)を噛みしめて歯型がついたほど悔しがったと言いますが、「左右みな(西郷を)賢なりというか。しからば愚昧の久光独りこれを遮るは公論に非ず。」と言い、西郷の赦免を許可します。

禁門の変

2度目の遠島から1年8ヶ月ぶりに鹿児島へ戻った西郷は、軍事司令官・外交官としての重職に任命されました。ここから、西郷の本領が発揮されます。

この頃、八月十八日の政変で京都を追われた長州藩でしたが、尊王攘夷派を取り締まる「池田屋事件」が起こったことで長州藩の急進派が激怒し、京都へ大軍を送ります。京都所司代の松平定敬から薩摩軍出兵の要請を受けるも、会津藩と距離を起きたかった西郷はそれを拒否します。

しかし、強い恨みを持った長州藩の勢いを止めることはできず、次々と会津藩兵を討ち取り、ついに京都外苑の御所内へ通じる蛤御門までやってきます。

この状況を見て、西郷は薩摩兵を率いて自ら蛤御門まで駆けつけ、自身も銃弾を浴びながら、激しい激戦の末に長州藩を退けます。この戦いは、のちに「禁門の変(蛤御門の変)」と呼ばれるようになりました。

勝海舟との出会い

またこの頃、西郷は幕臣の一人である勝海舟と出会っており、この二人の出会いが後の江戸無血開城へと繋がっていきます。

西郷は最初、どれほどの人物か見極めるつもりで勝海舟と会ったようですが、彼の想像を超える知略の高さと人間性の大きさに大変感服したようで、大久保利通に送った手紙の中で、その感動を詳細に語っています。

三回目の結婚

1865年、西郷は第三の妻となる糸子と結婚します。西郷は37歳、糸子は21歳でした。

糸子は薩摩藩士・岩山八郎太の娘で、150cmほどの華奢な体つきをしていたと言います。

西郷との間には寅太郎、牛次郎、酉三の3人の息子に恵まれました。また、第二の妻・愛加那との間にできた息子・菊次郎も引き取って養育していたようです。

長州討伐の平和的解決

禁門の変での勝利に勢いづいた幕府は、長州藩を討伐するために、徳川慶勝を征討軍の総督、西郷を参謀として派遣します。

当初、西郷は禁門の変で御所に発砲した長州藩には厳罰が必要だと考えていましたが、勝海舟から「薩摩と長州が戦うことに意味はなく、日本のために早く長州討伐を終わらせて、双方力を合わせて外国に立ち向かった方が良い」という提案を受けたことで、その考えを変えていました。

西郷は、以下の条件を守ることで、長州藩の征討は取りやめることを、相手側に伝えます。

  • 三家老・四参謀の切腹
  • 藩主と世子直筆謝罪状の提出
  • 山口城の破却
  • 八月十八日の政変の首謀者・三条実美ら「五卿の引き渡し」

長州支藩である岩国藩主・吉川経幹はこの西郷の温情に痛く感謝し、さっそく長州藩に働きかけ、実行していきます。

しかし、最後の「五卿の引き渡し」については、奇兵隊などの諸隊が強く反対したため、このままでは平和的解決ができないと考えた西郷は、交渉のために、なんと長州藩の本拠地である下関に乗り込みます。

当時は「薩摩人間が来たら切り捨てる」と言う長州藩士もいたため、これはまさに自殺行為だったわけですが、「五卿の安全の保証」と「内戦の無利益」について熱心に説いた西郷の熱意が伝わり、長州藩の幹部は西郷の要求をのみます。

かくして、長州征討は幕府側の不戦勝となり、大きな犠牲を生むことなく平和裡に解決することができたのです。

まさに、西郷の勇気と知恵と情熱が成した功績と言えます。

薩長同盟

長州征討は終わりましたが、長州藩に対する処分が軽すぎるという理由から、幕府首脳部は西郷の意に反して第二次長州征討を計画します。その幕府の対応に大きな不満を持つ西郷や長州藩の指導者・木戸孝允に対し、坂本龍馬などの土佐藩士が「薩長同盟」を結ぶよう働きかけます。

今まで犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が手を結ぶのは簡単なことではありませんでしたが、坂本龍馬がまずは経済面での協力ということで、薩摩藩が外国から買った武器を長州藩へ売り、長州藩は兵糧米を薩摩へ売り、お互いを助けるという案を提案します。こうした坂本龍馬らの努力と彼の熱い説得により、「薩長同盟」が成立することになるのです。

第二次長州征討

幕府は長州藩を征討するために、諸藩へ出兵要請をだしますが、裏で薩長同盟を結んでいた薩摩藩はこれを拒否。幕府が宣戦布告する形で第二次長州征討が始まります。しかし、薩摩藩などの有力諸藩がいないことで、長州藩の前に幕府軍は敗走を続けていました。また、将軍・徳川家茂も途中で亡くなったことで、最終的に第二次長州征討は休戦となります。

長州征討に関する一連の対応の中で、西郷は幕府に対する見切りをつけ、倒幕に向けた動きをするようになります。

大政奉還と王政復古

徳川家茂の次は、徳川慶喜が将軍に就きました。慶喜は西郷がかつて斉彬の命で次期将軍として押した人物ですが、今度はこの慶喜が西郷の行く手を阻みます。

第二次長州征討の休戦をチャンスと捉え、大久保利通の主導のもと薩摩藩などの有力な四藩へ幕府の権力を委譲するように仕向けますが、慶喜の巧みな政略により失敗します。

さらに孝明天皇からの反発もあり、反幕府派の公卿が退けられるなど、薩摩藩がどんどん厳しい立場に追いやられます。これにより、話し合いによる権力委譲が不可能だと察した西郷は、武力による倒幕を決意することになりました。

大政奉還

薩摩藩は土佐藩と「薩土盟約」を結び、朝廷から倒幕の密勅を受けた後、徳川慶喜に対して大政奉還を求める建白書を提出しました。

ここで慶喜が大政奉還を拒否することを見込んで、それを理由に武力行使を考えていた西郷でしたが、なんと慶喜はあっさりと大政奉還を認めます。

仮に朝廷に政権が移っても、今まで幕府に任せて来た朝廷がまともに政治を運営することはできないと慶喜は踏んでいたからです。

王政復古の大号令

1867年12月9日、西郷率いる薩摩軍が御所の宮門を護衛する中、「王政復古の大号令」が発令され、正式に政権が朝廷へ移りました。そしてその日の夜に、当時15歳だった明治天皇や諸藩、公卿を加え、小御所会議が行われます。

会議は大荒れ模様でしたが、最終的には西郷の一言で流れが決し、慶喜が保有する軍事力や領地は新政府に返納されることになりました。

江戸無血開城

小御所会議が行われている間、慶喜は近くの二条城に待機していました。

そして、幕府の武力と領地の返還が決定されたことを知ると、すぐに大坂城へ退くことを決定します。自らの軍勢を京都に置くことで、無用に薩長などと武力衝突することを恐れたためです。

しかし、そんな慶喜の意図に反し、幕府兵が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするなど、「薩長を討伐すべし」という幕府強硬派の勢いが強くなります。

その勢いは慶喜でも止めることはできず、ついに出兵を決意。「旧幕府軍」対「新政府軍」の戦いである、戊辰戦争が始まります。

鳥羽伏見の戦い

戊辰戦争の緒戦は鳥羽・伏見の街道で行われ、幕府軍1万5千の兵力に対し、迎え撃つ薩長軍は4千の兵力でした。

しかし、当初の戦況は五分五分だったものの、薩長側に「錦の御旗」が掲げられることで、戦況は一変します。「錦の御旗」は、薩長軍が朝廷から認められた正規の軍隊であり、慶喜率いる幕府軍はそれに逆らう賊軍だということを示していたのです。

朝廷から汚名を着せられた慶喜の戦意は喪失し、江戸へ逃げ帰ったことで、幕府軍は混乱に陥り、統制が取れなくなります。最終的に、鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍が圧勝する形となりました。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた慶喜は謹慎生活に入り、後事を幕臣の勝海舟に任せます。

勝海舟と西郷隆盛はお互い意気投合し、尊敬し合っている仲です。勝は徳川家の寛大な処分を求める手紙を西郷に送り、その意を汲み取った西郷は、徳川家の降伏条件を箇条書きにして幕臣の山岡に手渡します。

その後、交渉により条件を多少変更することになりますが、最終的には合意し、徳川家は新政府に降伏。

江戸への総攻撃は中止され、民衆100万の血を流す事なく、江戸無血開城は達成されました。徳川幕府が終わりを迎えたのです。

まさに、西郷隆盛と勝海舟の二人の英傑がいたことで成し遂げられた偉業といえる出来事でしょう。

引退

その後、西郷は薩摩藩の兵士を引き連れて新潟へ向かい、上野戦争において旧幕府軍で構成された彰義隊を破り、東北地方では、有力な庄内藩も破りました。その際、庄内藩の人々は厳しい処分が下ることを覚悟していましたが、西郷は非常に寛大な処置をとりました。

この西郷の人徳に感動した庄内藩士たちは、西郷が語った教訓や国家観を「南洲翁遺訓」という1冊の本にまとめたという逸話があります。

戊辰戦争が終わり、鹿児島へ戻った西郷は本気で引退を考えましたが、当時の不安定な情勢は西郷の力を必要としており、引退は許されませんでした。

留守番政府

倒幕を達成し、新政府を樹立してからも、問題は山積していました。

王政復古や戊辰戦争の貢献における恩賞が薩長出身者に偏っていることに対する不満や、新政府の人事に関する問題、また、脆弱な財政基盤に対する負担を民衆に課していたことで生じた反乱や騒動など、新政府はかなり不安定な状態だったのです。

当時の新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩の木戸孝允、そして薩摩藩の大久保利通でしたが、彼らは人望と政治力がある西郷に協力を仰ぎ、新政府を一大改革しようと試みます。

そこで西郷隆盛の弟・西郷従道へ依頼し、新政府の厳しい現状と西郷の上京を望んでいる旨を伝えます。

もともと新政府の状況を憂慮していた西郷は従道の説得に応じ、上京することになります。

廃藩置県の決行

新政府が当時重要な政策として必ず成し遂げなければいけない項目に廃藩置県がありました。これは、全国各地に存在する大名から、土地と人民を朝廷へ返還させるという政策です。

まさに、今までの日本のやり方を大きく変える抜本的政策だったわけですが、当然、その難事業を成功させるための方法について、大久保利通や木戸孝允の間で激論が起きます。

それを静かに聞いていた西郷はこう言います。

「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご心配なくやって下され」

この一言が議論を決定づけ、1871年7月14日、廃藩置県を実施。

西郷が新設した御親兵が効力を発揮し、特に大きな混乱や騒動もなく廃藩置県を完了することができました。

薩摩藩で西郷の主人に当たる島津久光はこの廃藩置県に激怒。あまりに怒り心頭だったため、夜通し花火を打ち上げていたという逸話があります。

結局、久光は廃藩置県後の県令職にも就くことができず、西郷への恨みを深めました。

1871年、江戸時代に締結された日米修好通商条約の改正における交渉や西洋文化の視察のため、岩倉具視を全権大使とする100名超えの岩倉使節団が横浜を出港しました。

そして新政府首脳陣が不在の間、不安定な日本を任されたのが西郷隆盛でした。

西郷は留守番政府の舵取りを果敢に行い、次々と重要な政策を打ち立ててきました。具体的な例を以下に記します。

  • 地租改正の布告
  • 各県に府県裁判所を設置
  • 陸軍、海軍省の設置
  • 学制の発布
  • 人身売買禁止令の発布
  • 散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止
  • キリスト教の解禁
  • 太陽暦の採用
  • 徴兵令の布告
  • 華士族と平民の結婚許可

西郷の主導によって、これほど多くの重要な政策が作られたというのは、まさに驚くべきことです。

新政府と対立し辞職

西郷が留守番政府を率いる中で、当時関係が悪化していた朝鮮に対し、「征韓論」と呼ばれる外交問題が生じました。

当初は西郷自身が全権大使として朝鮮へ赴き、交渉が決裂した場合、朝鮮と戦争をする手はずになっていました。

しかし、最終的に内政の安定化を理由として、大久保利通をはじめとする政府首脳陣は西郷の派遣に反対。

この「明治六年の政変」がきっかけで、新政府のやり方に納得できなかった西郷は役職を辞職し、故郷の鹿児島へ戻ることになりました。

西南戦争

西郷が鹿児島へ戻ると、彼を慕う薩摩藩出身の士族たちが次々と鹿児島へ集まります。

当時は、新政府に不満を抱く士族たちが日本各地で反乱を起こしていた時期で、西郷の元に集まったこの士族たちも、政府に不満を持つ血気盛んな者が多数いました。

鹿児島へ帰郷してからは、俗事から離れて悠々自適に農耕などへ励んでいた西郷でしたが、これらの集まった士族の受け皿として私学校を設立し、彼らに教育を提供していました。

しかし、鹿児島へ下野した西郷を警戒した新政府と、西郷を慕う士族の間で騒動が勃発。士族たちが政府の火薬庫を襲う事件が発生しました。

これを聞いた西郷は「しまった!なんちゅうこっを…」と言ったと伝えられています。

もともと政府と戦争などする気がなかった西郷でしたが、若者の士族たちの気持ちを尊重して、政府と戦うために出兵することを決めます。

日本最大の内戦、西南戦争の始まりです。

城山にて散る

国内最大級の内戦となった西南戦争。熊本城や田原坂での戦いは、歴史に残る激戦となりました。

西郷軍はじわじわと追い詰められていきます。最後は西郷軍の陣容は300人ほどとなり、対する政府軍は何万人もの軍勢で彼らを囲いました。

そして、故郷の鹿児島・城山にて、西郷は自刃し、その生涯を終えることになります。

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