人は聞いた言葉で心が創られる戦国編 竹中半兵衛

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戦国武将編

半兵衛というのは通称ではじめ重虎といったが,のち重治と改めました。
稲葉山城主斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年2月,竜興の寵臣政治に異議を唱えわずか十数名で稲葉山城(後の岐阜城)を乗っ取ったことでその名が広まりはじめました。
その後,城は竜興に返上したが行った行為に自ら蟄居し,同10年,織田信長が斎藤氏を滅ぼすと,豊臣秀吉の誘いによって信長方に付き,元亀1(1570)年の姉川の戦のころから秀吉の与力につけられた。
居城の菩提山城が美濃と近江の国境に近かったことから,近江浅井長政の家臣たちを味方にするという点で大活躍をし,「秀吉の軍師」などと呼ばれるようになる。中国攻めにも黒田官兵衛らと手腕を発揮し,知将といわれた。両名の事を両兵衛(二兵衛)と称した。播磨三木城攻めの最中に発病し,向城の平山の陣中において病没。

  1. 竹中半兵衛の名言
      1. 要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければ、要害堅城も物の用をなさない。それを分かって欲しく、稲葉山城を乗っ取ったまでで、御殿(おんとの)に御諫言(かんげん)の上、お返しする心づもりでござる。
      2. 合戦談を聞く場合、たいていな者が大事なことは問わず、枝葉のことばかり聞きたがる。誰が手柄を立てたとか、誰を討ち取ったとか、そんなことばかりを聞きたがる。一人武者の手柄話を聞いたとて、何の役に立とう。部隊の駆け引き、戦の変化などを主眼にして聞いてこそ合戦談も役に立つのだ。
      3. 武士は分に過ぎた高価な馬を持ってはならない。戦場でよき敵を見かけて追い詰め飛び降りて組まんとするとき、あるいは槍を合わせんとて降り立たんとするとき、馬中間(馬を引く足軽、従卒)が遅れていると、人に馬を奪われはしないかなどと考えて、つい心がひるんで、よき期をはずしてしまうものである。
      4. 馬に限ったことではない。武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである。
      5. お前も褒めてもらいたければ、自分で手柄を立てろ。
      6. 陣中で死ぬこそ武士の本望。
      7. ここに小便をたれるとも、軍(いくさ)物語をしている大事な席を立ってはならぬ。
      8. 一歩外へ出れば、すでに敵が狙っていると心得よ。
  2. 竹中半兵衛の人生
    1. 美濃土豪より立身
    2. 初陣
    3. 稲葉山城乗っ取り
    4. 秀吉に仕える
    5. 両兵衛
    6. 荒木村重の謀叛
    7. 半兵衛像
    8. 関連

竹中半兵衛の名言

要害がいかように堅固であっても、人の心が一つでなければ、要害堅城も物の用をなさない。それを分かって欲しく、稲葉山城を乗っ取ったまでで、御殿(おんとの)に御諫言(かんげん)の上、お返しする心づもりでござる。

合戦談を聞く場合、たいていな者が大事なことは問わず、枝葉のことばかり聞きたがる。誰が手柄を立てたとか、誰を討ち取ったとか、そんなことばかりを聞きたがる。一人武者の手柄話を聞いたとて、何の役に立とう。部隊の駆け引き、戦の変化などを主眼にして聞いてこそ合戦談も役に立つのだ。

武士は分に過ぎた高価な馬を持ってはならない。戦場でよき敵を見かけて追い詰め飛び降りて組まんとするとき、あるいは槍を合わせんとて降り立たんとするとき、馬中間(馬を引く足軽、従卒)が遅れていると、人に馬を奪われはしないかなどと考えて、つい心がひるんで、よき期をはずしてしまうものである。

馬に限ったことではない。武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである。

お前も褒めてもらいたければ、自分で手柄を立てろ。

半兵衛は秀吉から感状をもらうたびに破ったり、燃やしたりしていた。
半兵衛の息子が、なぜ破るのか?残しておけば後の代の役に立つのではないか?と質問した時の返答。
他人の実績で箔をつけるより、自分で手柄を立てて出世しろという意味の発言。

陣中で死ぬこそ武士の本望。

ここに小便をたれるとも、軍(いくさ)物語をしている大事な席を立ってはならぬ。

一歩外へ出れば、すでに敵が狙っていると心得よ。

竹中半兵衛の人生

美濃土豪より立身

天文13年(1544年)。半兵衛(本稿はこの名で統一)は、美濃国に誕生しました。

父は大御堂城主・竹中重元。
母は妙海大姉(杉山氏)。

竹中氏は、本姓桓武平氏の鎌倉氏庶流とされています。室町期は、美濃守護の土岐氏の家臣でした。本拠は大野郡大御堂城で、半兵衛もそこで誕生しました。天文14年(1545年)に父の重元が岩手弾正を攻略すると、以降、岩手山城に本拠を移し、半兵衛もこれに従いました。

竹中重元は、天文年間(1532-1555年)に土岐氏が没落すると、代わって台頭してきたた 「美濃のマムシ」の異名で知られる齋藤道三(さいとうどうさん)に仕えます。そして永禄3年から5年(1560-1562年)頃に、父の死を受け、家督を相続することになりました。

初陣

半兵衛の初陣は、弘治2年(1556年)に起こった長良川の戦いです。齋藤道三と、その息子の齋藤義龍(さいとうよしたつ)の間で起こった、家督を巡る内紛のような戦で、竹中家は道三の側に味方をしました。

父である重元が不在の中、初陣でありながら大将という大役を任された半兵衛でしたが、手堅い籠城戦を行うことで勝利を収めています。しかし、竹中家の奮戦も空しく道三は敗北。竹中家は、戦後も齋藤家に仕えることは許されますが、やはり遺恨はあったようで、父である重元の留守中に、屋敷に襲撃を受けたという話が残っています。

しかしその襲撃も、半兵衛や弟の重矩、何より母の妙海大姉の奮戦によって退けられたと語られており、当時の竹中家の文武に優れた様子がうかがえます。

稲葉山城乗っ取り

永禄7年(1564年)。現代まで半兵衛の名を驚異的に高めた出来事が起こります。稲葉山城乗っ取り事件です。なぜ半兵衛はそのような暴挙にでたのでしょう。当時の状況は、半兵衛の主君・斎藤家当主は、その3年前の永禄3年(1560年)に家督を継いだ斎藤龍興でした。この龍興、政務に無関心であるばかりか、要となる西美濃三人衆や半兵衛ら家臣を遠ざけていました。※西美濃三人衆とは、稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全。

尾張の織田信長が圧力を強めている最中、半兵衛は過激なやり方で「喝」を入れることにしました。他でもありません。舅の安藤守就と共に居城・稲葉山城(のちの岐阜城)を攻略するというもの。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城でした。斎藤道山亡き後義龍の代においても織田信長が落としきれないでいた城です。

その城を 内部からとはいえ15人程度の勢力で占領してしましますが半兵衛はその城を龍興に返し、近江の浅井長政を頼って辞去したともされます。実際は、斎藤龍興の反撃に遭い城を出ています。

半兵衛は、領土欲や野心の薄い人物とされることがあります。そのイメージはこうした行動が元になっていると思われますが、いかんせん潤色(じゅんしょく)された逸話ですので、本当に無欲だったかはわかりません。

ただ、能力が高かったことだけは間違いないでしょう。龍興が織田信長に破れたあと、齋藤家を去った半兵衛は、北近江(現在の滋賀県)を治めていた浅井長政(あさいながまさ)の客分として雇われます。そこでは客分として、それなりの禄を得ますが、1年後の永禄11年(1568)には旧領に戻って隠棲しました。

秀吉に仕える

隠棲したからと言って有能な半兵衛を人材登用に長けた信長が見逃すわけなく美濃を攻略した信長は、半兵衛に仕官して欲しいと持ちかけます。ただし、彼が本当に伝説的な軍師だから、とみなすことにはちょっと注意が必要です。半兵衛の経歴についてちょっと注意したいのが三国志や関連作品でお馴染み「諸葛亮」の存在です。「三顧の礼」で誘われたとか。半兵衛が信長より秀吉の方が優れていると見込んだとか。諸葛亮と劉備の話をトレースした流れで盛られる傾向にあり、そのへんはあくまでフィクションとして楽しむほうが良さそうです。

実際には、秀吉の家臣として信長の支配下に入る「与力」扱いでした。。半兵衛は優れた人物ですが、浅井長政と対立している信長にとって、敵に近い人脈を持つ将は、それだけで魅力があったのは確かでしょう。実際に半兵衛は、浅井人脈を活用した調略を行っています。

両兵衛

半兵衛は、そのあと秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、その家臣として中国に向かいます。天正6年(1578年)には、宇喜多氏の備前八幡山城落城で功績。このころには、同じく秀吉の家臣であった黒田官兵衛孝高とも親しくするようになりました。秀吉配下の「両兵衛」とは、この半兵衛と官兵衛をさすことは、よく知られています。・名前も似ている・どちらも有能な軍師しかし、両者とも活躍はかなり誇張されている。そこは考えるべきでしょう。

また「両兵衛」という呼称は同じ軍師という立場もあってか、今ではコンビとして扱われることも多い半兵衛と官兵衛ですが、実は同じ戦で活躍したことは、記録上は1度しかありません。その期間というのも、天正5年(1577年)に信長が行った播磨攻め(中国攻め)の開始から、半兵衛の病没(1579年)までの僅か2年ほどでしかなく、戦国に名高い智者2人が、揃って秀吉の下で戦ったことは、実はほとんどありませんでした。

しかし、戦場以外での彼らの親交は深く、その親交を示す様々なエピソードが残っています。

有名なものに、官兵衛の裏切りを疑い、「官兵衛の息子である、松寿丸を殺せ」という信長の命令に対し、半兵衛は危険を冒し、信長から官兵衛への疑いが晴れるまで松寿丸(しょうじゅまる)を、家臣の屋敷に匿ったという逸話があります。

官兵衛も、息子の命を救ってもらった恩からか、半兵衛の死後、その嫡子である竹中重門(たけなかしげかど)の後見人を務めた他、半兵衛から形見分けとして託された軍配と軍団扇を終生大事に扱い、黒田家の家紋として、竹中家が使っていた黒餅紋という家紋を使うようになりました。

共に在った期間は短くとも、同じ主を仰ぎ、知略で戦場を生きた者同士。お互いに通じ合う友情があったことに、疑いを挟める余地はないでしょう。

荒木村重の謀叛

両兵衛が親しかったことは史実です。二人の交流における最大のクライマックスは、大河ドラマ『軍師官兵衛』でも盛り上がる荒木村重の謀叛でしょう。

有岡城で村重が、信長に対して謀反を起こした際、黒田官兵衛はその説得に向かいました。しかし村重に捕縛された挙げ句、牢獄に幽閉されてしまいます。投獄され苦しむ官兵衛。団結する家臣団たちや家族の姿は、フィクションでも大きなみどころとなっています。

大河ファンの方でしたら、今なお栗山善助や井上之房、あるいは母里太兵衛、後藤又兵衛の顔などが浮かんでくるでしょうか。官兵衛との連絡が途絶えた信長は、彼が裏切ったと激怒します。そして官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を殺せと秀吉に命じたのです。

このとき半兵衛は、信長の首実検に「偽首」を差しだしました。松寿丸の命は救われたのです。半兵衛が自領に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷で匿いました。

竹中半兵衛の死因は肺結核と言われ、三木城攻めの最中にこの世を去ります。 一度は京都に戻り、病気療養に努めたと言われていますが、自分の死期が近い事を悟ると三木城攻めの陣に戻り 心配する秀吉に「どうせ死ぬのであれば武士として戦場で死にたい」。 としその翌年の天正7年(1579年)4月、半兵衛は病に倒れ、陣中で没します。享年36。

後に、有岡城が陥落し、ようやく土牢から解放された官兵衛は、半兵衛に感謝の念を示したとされます。
感謝してもしきれない。まさに黒田父子にとって命の恩人でした。半兵衛亡き後の同家は、嫡子の竹中重元が継ぎました。重元は、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本(交替寄合席)となっています。

半兵衛が助命した黒田長政が大大名となったことを考えると、少し寂しいと言えるかもしれません。これは能力の差というよりも、半兵衛の死が早すぎた影響もあるのでしょう。やはり、もっと長生きして采配を振るって欲しかった。そう思わせる人生かもしれません。

半兵衛像

フィクションの華々しい軍師像を削ってゆくと、竹中半兵衛の人生は、秀吉の影に隠れてしまいがちです。

彼の活躍をつきつめてゆけば、結局のところ、秀吉がいかに優れていたか、ということにつながります。
半兵衛のものとされている戦果の最終決定者も実行者も、ほとんどが秀吉なのです。

秀吉という日輪の影を反射して輝くのが半兵衛です。もしも彼が長生きしていれば、黒田官兵衛のようにもっと活躍を残すことができたでしょう。稲葉山城を乗っ取り。信長に若くして請われて仕え。秀吉が常に戦場で側におき。そして『信長公記』にもその死が記載されたということは、やはり優れた人物であるという証です。
そこは否定できません。彼の事績であり、人柄がわかる行動としては、やはり黒田官兵衛・長政父子を救ったことではないでしょうか。

竹中半兵衛イメージといえば、色が白く線が細い、儚げで女性のような風貌。戦場においては、槍や刀ではなく、天才的な頭脳で勝利へ貢献する天才軍師。

それだけを聞くと、文化人的で物静かな、穏やかな人物像を想像する人が多いかと思います。しかし、記録に残る半兵衛の性格は、どちらかと言えば誇り高い熱血漢で、公明正大な人物。そして何より、あまりに無欲な人物だったそうです。

語り継がれる容姿や、戦場を指揮する軍師のイメージとは異なり、意外と熱血漢だった半兵衛。そんな半兵衛の誇り高い性格を示すエピソードには、こんなものがあります。

ある日の軍議(戦略会議)の最中、半兵衛の息子が用を足しに席を立つと、半兵衛は激怒し、息子を怒鳴りつけました。「たとえ失禁しようと、軍議の席を離れることは許さん」「むしろ、軍議に聞き入って失禁したというなら、それは家の恥ではなく、家の誉れだろう」といったそうです。

他にも、半兵衛の公正さと無欲さを示すエピソードが残っています。

秀吉が半兵衛に、知行(今で言う給料)の増加を約束する書類を与えようとすると、半兵衛はそれを固辞し、挙句その書類を破り捨ててしまいます。驚き、理由を尋ねる秀吉に、半兵衛は「こんなものを残して、もし私の息子が、『秀吉様は、父にはこんなに目を掛けてくれていたのに、何故私には目をかけてくれないのだ』などと逆恨みをするような事態になっては、あなたにとっての災いになります。よって、このようなものは不要です」と答えたそうです。

軍師という立場に強い誇りを持ち、自分自身や家族も含め、公正に物事を見ながら秀吉に仕えた半兵衛。半兵衛の死を知った秀吉が、大粒の涙をこぼして声を上げて泣いたという話があることからも、秀吉からの半兵衛に対する信頼が、たいそう厚いものだったことが感じとれます。

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