人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 黒田官兵衛

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戦国武将編

黒田官兵衛は戦国時代から江戸時代前期にかけての戦国武将であり、キリシタン大名でもありました。

豊臣秀吉の側近、知恵袋として活躍しました。官兵衛というのは通称で実名は黒田孝高(くろだ・よしたか)です。 

  1. 黒田官兵衛の名言
      1. 常日頃好むところでも、よくこれを選び慎むことが大切である。主人の好むところは、家来や百姓町人も、自然とその真似をするものであるから、とくに注意せねばならぬ
      2. その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い
      3. 私一人の注意では、多くの家来たちに届くまいから、見逃すことも多いだろう。よくないことがあったなら、遠慮なく知らせて欲しい
      4. 天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり
      5. 上司の弱点を指摘してはならない
      6. 障害に遭いて激し、その勢力を百倍にするは水なり
      7. 四角な器にも円い器にも水は器に応じて入る
      8. 武将の家に生まれたからにはしばらくも武の道を忘れてはならぬ
      9. 概して、大名の子供は生まれたときから、平素安楽に育ち、難儀をしたことがないから、下々の者の苦労を知らない
      10. まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだこちらもおすすめの名言
      11. 自ら活動して他を動かすは水なり
      12. 思いおく言の葉なくて、ついに行く、道は迷はじなるにまかせて
      13. 我が君主は天にあり
      14. 金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである
      15. 戦いは考え過ぎては勝機を逸する。たとえ草履と下駄とをちぐはぐに履いてでもすぐに駆け出すほどの決断。それが大切だ
      16. 気が合う家来、合わない家来とでは、仕置の上にもこのような私心ができてくるものであるから、みな、よく注意せねばならぬ
      17. 最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ
      18. その人の本質はそのまま残し変化に対応するには、常に柔軟でなければいけない
      19. 人に媚びず、富貴を望まず
      20. これはそちのためにしているのだ。乱心ではない。わしが諸臣に嫌がられて、一日も早く長政の代になるとよいと思わせるためだ
      21. 武芸に凝って、ひとり働くことを好むのは、匹夫の勇といって、小心者の嗜みであり、大将の武道ではない
      22. 分別過ぐれば、大事の合戦は成し難し
      23. すべて国を治めていくには普通の人と同じ心がけでは駄目である。まず、政道に私な、その上、わが身の行儀作法を乱さず、万民の手本とならねばならない
      24. そのとき、お前の左手は何をしていたのだ?
      25. 人間には必ず相口、不相口というのがある。相口というのは、他人の心をよく知ってそれに合わせる事だ。不相口というのは、逆らって異見を言う者をいうこちらもおすすめの名言
      26. 自ら潔うして他の汚濁を洗いしかも清濁併せ容るるは水なり
  2. 官兵衛の人生
    1. 小寺氏、信長に臣従
    2. 村重の謀叛と幽閉
    3. 秀吉の中国攻略
    4. 秀吉の天下取り
    5. 山崎の戦いから九州平定まで
    6. 九州豊前入部
    7. 小田原征伐での和睦交渉
    8. 朝鮮出兵で三成と対立
    9. 天下分け目
    10. 寝返り工作を行う
    11. 官兵衛、九州で平定
    12. 悔い無き最期
    13. 関連

黒田官兵衛の名言

常日頃好むところでも、よくこれを選び慎むことが大切である。主人の好むところは、家来や百姓町人も、自然とその真似をするものであるから、とくに注意せねばならぬ

その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い

私一人の注意では、多くの家来たちに届くまいから、見逃すことも多いだろう。よくないことがあったなら、遠慮なく知らせて欲しい

天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり

上司の弱点を指摘してはならない

障害に遭いて激し、その勢力を百倍にするは水なり

四角な器にも円い器にも水は器に応じて入る

武将の家に生まれたからにはしばらくも武の道を忘れてはならぬ

概して、大名の子供は生まれたときから、平素安楽に育ち、難儀をしたことがないから、下々の者の苦労を知らない

まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだこちらもおすすめの名言

自ら活動して他を動かすは水なり

思いおく言の葉なくて、ついに行く、道は迷はじなるにまかせて

思い残す言葉もなく、ついに最期の時を迎えた。この先道にも迷わない。なるがままに任せよう。

我が君主は天にあり

金銀を用いるべき事に用いなければ、石瓦と同じである

戦いは考え過ぎては勝機を逸する。たとえ草履と下駄とをちぐはぐに履いてでもすぐに駆け出すほどの決断。それが大切だ

気が合う家来、合わない家来とでは、仕置の上にもこのような私心ができてくるものであるから、みな、よく注意せねばならぬ

最期の勝ちを得るにはどうしたらいいかを考えよ

その人の本質はそのまま残し変化に対応するには、常に柔軟でなければいけない

人に媚びず、富貴を望まず

これはそちのためにしているのだ。乱心ではない。わしが諸臣に嫌がられて、一日も早く長政の代になるとよいと思わせるためだ

武芸に凝って、ひとり働くことを好むのは、匹夫の勇といって、小心者の嗜みであり、大将の武道ではない

分別過ぐれば、大事の合戦は成し難し

すべて国を治めていくには普通の人と同じ心がけでは駄目である。まず、政道に私な、その上、わが身の行儀作法を乱さず、万民の手本とならねばならない

そのとき、お前の左手は何をしていたのだ?

人間には必ず相口、不相口というのがある。相口というのは、他人の心をよく知ってそれに合わせる事だ。不相口というのは、逆らって異見を言う者をいうこちらもおすすめの名言

自ら潔うして他の汚濁を洗いしかも清濁併せ容るるは水なり

官兵衛の人生

官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)に誕生しました。

母は播磨国国衆・明石正風の娘。
7才で読み書きを習い始め、14才の歳に母を亡くし、迎えた永禄5年(1562年)、初陣の機会がやってきました。相手は、小寺氏と対立していた浦上宗景です。官兵衛17才のときでした。

初陣を果たした前後の官兵衛は、連歌や和歌を好んでいました。この道を究めたいとすら考えていましたが、近隣の僧が諫めます。「今は乱世です。風雅の道よりも、兵書を学び、弓馬の道をおさめるべきです」こう言われた官兵衛は、今は歌は必要じゃないなと思い直します。ただし、官兵衛が風雅の道を諦めたわけではありません。

後年落ち着くと連歌を再開。細川幽斎、最上義光らとともに、当時の武将としてはトップクラスの実力を誇る名手とされています。センスと教養があった人物です。

実際、官兵衛の叔父・小寺休夢は、秀吉のお伽衆にまでなった人物です。当意即妙の歌を詠む、そんな文才は、環境や血筋の影響もあったのでしょう。永禄7年(1564年)、事件が起きました。

室津の浦上清宗が祝言において赤松政秀に攻め殺され、嫁いでいた官兵衛の妹もろとも殺害された、というものです。フィクションでは欠かせない騒動ではありますが、実は史実かどうかは不明。3人いたと伝わる官兵衛の妹は、いずれも有力者に嫁ぎ、平穏に生きていたと伝わります。

一方、自身の結婚は、永禄11年(1568年)前後とされています。永禄11年(1568年)に息子・松寿丸(のちの黒田長政)が誕生したことは確かですが、結婚の時期がいつなのか、というのは記録がないのです。息子誕生のタイミングから逆算しているわけですね。

官兵衛はこのとき23才、妻の櫛橋光(くしはし てる・後に幸圓)は16才とされています。光(ドラマでは中谷美紀さん)は体格がよく、賢く、大変優れた女性でした。

小寺氏、信長に臣従

官兵衛の運命が一変するキッカケは、畿内から西へ勢力を伸ばし始めた織田信長でした。秀吉の側近につけられ竹中半兵衛と並び「両兵衛」と言われています。

当時の播磨はかなり混乱しており、まさしく群雄割拠という状態。かつて一大勢力であった赤松氏が衰退すると、かわって様々な勢力が台頭します。

播磨国
・御着城主:小寺氏
・三木城主:別所氏
・龍野城主:龍野赤松氏

備前国
・宇喜多氏(宇喜多直家~宇喜多秀家)
・浦上氏

そんな播磨に侵攻を模索していたのが織田信長であり、小寺氏は織田勢との戦いで敗退。官兵衛は、天下の大名でこれから台頭するのは織田信長と毛利輝元なれど、信長につくべきだと主君・小寺に進言します。信長の元に、小寺の使者として赴いた官兵衛はすっかり相手から気に入られ、秀吉を播磨攻略に差し向けることにしました。そしてその支援者として官兵衛を指名した、というのですが、このあたりの話はいささか出来過ぎの感がありますね。後世の創作も混ざっているかもしれません。

天正5年(1577年)、毛利氏と小寺氏の間で英賀合戦が勃発。信長に臣従した小寺氏による代理戦争ともいえるもので、官兵衛も武功を立てたことが確認できます。そして当時はまだ羽柴だった秀吉が播磨に入ると、小寺氏よりも官兵衛を重用するようになりました。

これを機に【信長&秀吉と官兵衛】の関係は強固なものとなり、現在に至るまでのイメージである【秀吉の元で奮闘する知将・黒田官兵衛】としての姿が出来上がりました。同年、官兵衛は「上月城の戦い」でも戦果をあげ、秀吉の播磨攻略で存在感を見せるようになるのです。

村重の謀叛と幽閉

秀吉の右腕として、順調に戦功を重ねていく官兵衛。しかし、おそるべき陥穽が彼を待ち受けておりました。天正6年(1578年)、伊丹・有岡城主である荒木村重が謀叛を起こしたのです。

信長は性格的に、謀叛を起こしたら即座に討伐する魔王と思われがちですが実はそうではありません。ます説得を試みます。織田側から何度かの説得が試みられ、その都度失敗し、最後に選ばれたのが官兵衛でした。

交渉力に一目置かれていたこともありますが、もう一つ事情があります。播磨で裏切りの連鎖が発生し官兵衛の主君・小寺氏までもが、毛利氏に誘われ、織田への謀叛を決意していたのでした。事態を憂慮した官兵衛は御着城に向かい、主君の説得に乗り出します。

そこで小寺政職から出された条件が次のものでした。【村重が謀叛を撤回するならば、私も毛利氏の誘いには応じない】一見、説得力のある話です。
そもそも村重が織田を裏切ったのも、石山本願寺の攻略が遅々として進まず、毛利を頼ったほうが得だと考えたから――という見方があり、小寺としても、このままでは村重と毛利に挟まれ危険な状況。ゆえに村重の説得は、多くの者にとって死活問題でした。しかし、小寺政職は策を弄するのです。官兵衛に説得を命じる一方、村重に使者を出し、官兵衛の暗殺を依頼していたのでした。

それを見抜けなかった官兵衛は敢えなく有岡城に幽閉されてしまいます。もしかしたら小寺政職は、主君をさしおいて信長や秀吉と接近する官兵衛が疎ましかったのかもしれません。

留守を守る黒田家は団結し、この荒波を乗り切ろうとします。一方、信長は、官兵衛が裏切ったと思い、激怒。
人質となった官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)殺害を命じますが竹中半兵衛は反対しましたが、聞き入れてもらえませんでした。官兵衛の裏切りを信じられない半兵衛は松寿丸を匿うことにします。もし発覚したらただではすまない、命がけの行動でした。残念ながら半兵衛は、天正7年(1579年)に亡くなり、幽閉中の官兵衛との再会はかないません。

天正7年(1579年)10月、有岡城が攻め落とされた際、やっと官兵衛は一年あまりを経て解放されます。
頭髪は抜け落ち、膝の関節が曲がり、脚は一生回復することはありませんでした。が半兵衛に受けた恩は生涯忘れなかったと思います。

秀吉の中国攻略

幽閉を終えた官兵衛は、秀吉の中国平定に付き従いました。まず天正8年(1580年)に、別所長治の三木城を陥落。翌天正9年(1581年)には、吉川経家が城主となっていたに鳥取城へ出兵(第二次鳥取城攻め)をします。さらには天正10年(1582年)、毛利氏の武将・清水宗治が守る備中高松城を攻略するのですが抵抗が激しく城攻めの名人と言われた秀吉ですら攻めあぐねていました。

秀吉の中国攻略に関しては、上月城攻めからそういう傾向がありましたが、なかなか凄惨な様相を呈しております。兵糧攻めや水攻めを【武器で直接殺さないから秀吉&官兵衛って優しい!】なんて強引な解釈がたまにありますが、実態はそんなに甘くありません。

特に、三木城と鳥取城で過酷すぎると評され、それぞれが・三木の干し殺し・鳥取の渇え殺しなんて語り継がれるぐらいです。両合戦ともに、とにかく飢えを徹底させて、城内では人の屍体を食したとまで伝わりました。

水攻めは、アイデアを出したのが秀吉で、実際に堤防を築いたのは官兵衛の功績とされています。もともと秀吉は、付城(城を包囲するときに作った攻め手の簡易的な砦)の設置をはじめとした土木工事に長けていたとされますが、官兵衛もその能力が伝わったか、あるいは元々高かったようで。

中国攻略の最中、官兵衛を見捨てた小寺氏も滅亡、官兵衛は黒田姓に復します。しかし、この中国攻めの最中、驚天動地の知らせが秀吉陣中に届きます。「本能寺の変」です。明智光秀の裏切りによって、織田信長が横死を遂げたのでした。

秀吉の天下取り

本能寺の変と言えば、結果的に秀吉を大出世させた一つの大きな契機でもあります。軍師官兵衛の各作品にとっても、中盤のハイライトになるでしょう。官兵衛は「秀吉こそ次の天下人である!」と進言、毛利との和睦から、中国大返しを提言したというものです。

本能寺の変を知った秀吉が、急遽、毛利氏との和睦を取り付け、畿内へ向けて軍を反転。200kmもの道のりを10日間で突き進み、山崎の戦いで明智光秀を倒しました。

中国大返し! 秀吉・官兵衛の10日間で230km強行軍を考察してみると道中に官兵衛は姫路から人を派遣し、事前に食事を用意していたとの見解もありますしかし、そこまでの余裕があったとはさすがに考えにくい。多少は可能だったでしょうが、道々に、松明やら握り飯まで用意していたという話となると、さすがに出来過ぎでしょう。中国大返しで官兵衛は、殿(しんがり・最後尾)を務めていたという指摘もあり、畿内へ進むことよりも、むしろ毛利の追撃に注意を払っていたフシがあります。毛利とは和睦を結んではおりましたが、100%信じ切って背後を攻められたら、明智光秀との合戦どころか秀吉軍壊滅の恐れがあります。この大返しにおいて一番大事な場面だとおもいます。

山崎の戦いでで光秀は秀吉に敗れ敗走します。その後織田家の重鎮、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破りました。この戦いにおいて前田利家の存在が大きな存在になりました。その利家が秀吉側についたことで勝利を得たと言えるでしょう。

山崎の戦いから九州平定まで

この先しばらくは秀吉の軌跡と重なり、天下統一作業へ突き進みます。

1582年 山崎の戦いで明智光秀に勝利

秀吉軍4万に対し明智軍は1万6000(太閤記)。
官兵衛は激戦となった中川清秀軍を補佐し、勝利に貢献した。毛利の牽制を期待していた明智の予測を裏切り、中国大返しを成功させたのが大きな勝因であり、毛利に対する交渉・殿を務めた官兵衛の功績が光る。秀吉は山崎城を築いて周囲に対する牽制をはかった。

1582年 清州会議で三法師を擁立

石高では秀吉が柴田勝家を上回りましたが近江の要・長浜城やお市の方を渡すことになり、実は一人勝ちでもなかった。天下の趨勢はまだまだ見えない(そうでなければ後の賤ヶ岳の戦いもない)。

1582年 織田信長の葬儀を大徳寺で行う

信長の葬儀(百カ日法要)を実施。遺体の代わりに香木を2体用意、1体を祀り(木造織田信長坐像が現存)、1体を火葬するというもので、7日間かけて行われた。かなり大規模なもので参列者は3000人にのぼり、それに伴う警護の兵が3万人も用意されたのは、やはり対外的なアピールが重視されてのことだろう。
信長の息子たち(織田信雄・織田信孝)は招かれず、同様に勝家も出席せず。賤ヶ岳の戦いへと繋がっていく。

1583年 賤ヶ岳の戦い

秀吉vs勝家は、両軍共に、強固な砦の設置で戦線は膠着。そんな中、鬼玄蕃と称される猛将・佐久間盛政の奇襲で中川清秀軍が崩壊する。続けて攻撃された官兵衛軍がこれを凌ぎ切り、岐阜へ向かうと見せかけていた秀吉本隊が戻ってくると形勢は一気に逆転した。柴田勝家は、信長の妹で妻であるお市と共に自害。三姉妹(茶々・初・江)は秀吉に引き取られ、長女の茶々が後に側室となって豊臣秀頼を生む。

1583年 大坂城の築城開始

官兵衛が工事責任者となり6万人を動員、約15年の月日をかけて完成させる。

1584年 小牧・長久手の戦い

秀吉(10万)vs徳川・織田信雄(3万)の戦い。戦力的には秀吉方が圧倒的に有利だった。開戦当初の官兵衛は、大坂で居留守役も、息子の黒田長政が参戦、岸和田の戦いなどで戦功を挙げる。
家康不在の三河へ攻め入ろうとした【池田恒興・森長可・堀秀政・羽柴秀次】軍が徳川の逆襲に遭った頃に官兵衛も戦場へ赴いており、ここでも殿を務めるなどして活躍。小規模な戦いがいたるところで起きたこの戦いは、最終的に織田信雄を取り込んだ秀吉の政治的勝利に終わった。

1585年 紀州征伐

かつて石山本願寺に立て篭もり、織田信長を震撼させた鉄砲集団・根来&雑賀衆を物量戦で征伐する。
しかし、独立気風がことのほか強い土地柄で、その後、一気が勃発。あまりにも反勢力の蜂起が激しく、他に先駆けて「刀狩り」が行われた。

1585年 長宗我部元親が降伏

四国攻めの官兵衛は、蜂須賀正勝と共に検使として渡り、阿波へ侵攻すると諸城を次々に陥落。長宗我部元親は降伏せざるを得ない状況となり、四国全域から土佐一国の知行に減ぜられた。
戦後、伊予で知行の配分にあたっていた官兵衛は、この後、四国・中国軍を率いて九州攻めに進むことになる。

1586年 秀吉、太政大臣に就任

正二位内大臣に叙任されていた秀吉は(正二位は信長と並ぶ位階)、近衛家の養子となって前年の1585年に関白就任。翌年、太政大臣となって、まさに位人臣を極める(臣下として最高位となる)。この後、官兵衛は従五位下・勘解由次官の官位を得た。

1587年 九州平定

この時点で秀吉に従っていない大勢力は、・九州の島津氏・関東の北条氏・東北の伊達氏ら(最上は早くから通じる)だった。

「九州全域を支配するのではないか」という勢いの島津家でした。この頃は島津義久・島津義弘・島津歳久・島津家久の島津四兄弟が同地方を席巻。そこで、今にも潰されそうな大友家が、秀吉に救いを求めたのです。

緒戦となる「戸次川の戦い」で、仙石秀久や長宗我部元親を打ち破った島津に対し、秀吉は20万の大軍を派兵しました。官兵衛は、豊臣秀長総大将の軍監として豊前国(福岡県・大分県にまたがる九州の玄関口)へ渡ると、先鋒隊として次々に城を落としていきます。

そして島津義久とも直接戦い、勝利しており、ほどなくして島津は降伏。いくら精強で知られる薩摩でも、秀吉が自ら指揮する20万の大軍に敵うハズはありませんでした(島津は2~5万との見立て)。

九州豊前入部

天正15年(1587年)の九州平定後。官兵衛は豊前国の中の6郡(ただし宇佐郡半郡は大友吉統領)、12万石(太閤検地後は17万石以上)を与えられました。これを受けて、中津城の築城に着手します。

平定されたとはいえ、九州はまだまだ不安定な地。秀吉にしてみても、難しい統治を任せるのは官兵衛しかいないと考えたと言われます。また一説には、この頃の秀吉は官兵衛の才能の高さにおそれ遠くに置いたといわれています。実際、官兵衛が厳しい掟を制定、現地の統治運営に乗り出したところ、いきなり宇都宮氏一族による一揆が発生しまてしまいます。

もともと大友氏の家臣であった宇都宮鎮房(城井鎮房・きいしげふさ)は、伊予国への転封を拒否し、改易されておりました。その鎮房が挙兵し、大規模な反乱となったのです。

この宇都宮氏の反乱は、官兵衛の手を穢れた血で染めたものといっても差し支えはないでしょう。息子を人質に出した鎮房を合元寺に呼び出し、黒田長政が謀殺したとされておりました。
合元寺の壁が真っ赤に染まったのは、長政の配下が宇都宮家臣を惨殺したため―との伝説が現在も残っています。鎮房は娘・鶴姫も人質として黒田家に預けており、父の死後、磔刑にされたと伝わります。鶴姫の悲劇は、『斑雪白骨城』として歌舞伎の題材にもなりました。

それだけ宇都宮氏の反乱の勢いが強く、なかなか抑えつけられなかったということなのでしょう。天正17年(1589年)、官兵衛は家督を長政に譲りました。

齢50を前にしての行動であり、後世、様々な憶測がなされていますが、当主が早めに家督を譲ることはそこまで特異とも言えないでしょう。伊達輝宗、北条氏政らも早めに家督を譲っています。

そして天正18年(1590年)、官兵衛はキリスト教に入信します。洗礼名は「ドン・シメオン」。シメオンは人の話をよく聞く、耳を傾けるという意味で、ブルガリア王にも同名の名君がいます。

ただし、キリスト教禁教令以来、黒田家は官兵衛の信仰を抹消したがったため、記録にはあまり残されなかったようです。

小田原征伐での和睦交渉

小田原征伐(1590年)における官兵衛は、息子の長政と共に親子で参陣。官兵衛は北条氏照の備を落とし、褒美として太刀を与えられています。さらには小田原城を守る太田氏房を説得して北条氏政・北条氏直親子との交渉を開始、結果的に和睦へ持ち込むという手柄を立てます。

このような重要な役割を任されたということは、官兵衛の智謀が際立っていたことの証拠でもあります。彼の活躍は荒唐無稽な潤色も多いのですが、それを差し引いたところで、こうした活躍を見て行けば、十分に優れた武将であったことがわかります。

朝鮮出兵で三成と対立

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵は、官兵衛にとって厳しいものであったと考えられます。

肥前名護屋城の縄張りに始まり、半島に渡っての激戦。戦線は膠着し、慣れぬ異国での戦いで、官兵衛は重病を罹ってしまいます。このころ出家しているのは、精神的に限界に近かったせいかもしれません。その負担は、息子の長政へ重たくのしかかっていきました。それが豊臣政権破綻の要因になっていたかもしれない。ということに秀吉は気づきもしなかったでしょう。

本来なら、同政権の若手グループで中心となるはずの長政が、石田三成に対して憎悪の感情を抱くようになるのです。無謀な出兵は、確実に武将たちの心を蝕み、亀裂は拡大していきました。

そして、秀吉、没。いよいよ情勢は混沌としてきます。石田三成に対して敵意を持つように至った黒田長政は、慶長4年(1599年)、三成を襲撃する七将に名を連ねるにまで至ります。さらに黒田家は、進んで秀吉の遺言を破るようなことをします。慶長5年(1600年)、家康の養女である栄姫と長政が結婚したのです。

これはもう豊臣から徳川へ乗り換える明確な宣言にも似た行為でした。なぜなら、このとき長政が離縁を申し付けた前の正妻というのは、かつて秀吉とスペシャルマブダチな間柄だった蜂須賀正勝(小六)の娘だったからです。関ヶ原が迫っている時期でした。

天下分け目

慶長5年(1600年)、会津討伐に徳川家康が向かった背後で、石田三成が挙兵します。天下分け目の関ヶ原。
官兵衛および長政の妻は、その開戦前に無事大坂を脱出し、事なきを得ています。一方の黒田父子は、別々に行動することとしました。石田三成と厳しく対立してきた長政は、東軍の将として関ヶ原に参陣、家康とともに西上しますが官兵衛は九州に残りました。

このとき毛利輝元の家臣・吉川広家に対し、毛利輝元を支持する内容の書状を出しています。官兵衛はそこで、四国・九州の大名から人質を取るように提案。九州の大名が味方するはずだと述べております。

このあたりややこしく、一見、官兵衛が毛利に味方する=西軍であった、かのように思えるのですが吉川広家は、西軍につくことに反対しており、毛利家の中にありながら東軍として行動していたわけです。

官兵衛は、【西軍の総大将である毛利家において、立場的に東軍である広家を支持する】という、複雑な状況で東軍を支えていた、ということになります。

関ヶ原において、官兵衛は見事に九州を切り取り回りますが(後述)、これも【自分で天下を取るため】ではなく、【切り取ったぶんをもらえると家康から約束されていたから】が、動機としては考えられます。

伊達政宗の場合と同様です。官兵衛にせよ、政宗にせよ、関ヶ原での動きを彼ら自身の天下取りと結びつけられますが、純粋な領土欲による奮闘と考えたほうが自然です。

しかし黒田父子は、広家相手の工作になかなか手間取ったようです。あれだけ手を尽くしておきながら、毛利輝元に大坂城へ入られてしまったのですから、かなりの焦りを感じていたことでしょう。

広家自身も「西軍に勝機ある」と流されつつあったのです。ここで官兵衛は、二人で広家の説得を試みています。「家康は確実にあなたのいる西に向かいますよ。とても心配ですね。落ち度がないよう、日頃から気を遣うべきです。上方の武将も、皆家康につくのですから、孤立しかねないあなたが心配です。あなたが心配です」
広家が心配でたまらないな、と言いつつもやんわりと脅すような、そんな書状を送っているのです。

官兵衛の関ヶ原といえば、九州を席巻する様子が描かれます。実際にはそれ以上に、毛利家内部工作の方が重要かもしれません。

寝返り工作を行う

さて、長政のほうは。関ヶ原の戦い前夜、小早川秀秋を説得しておりました。秀秋の家臣に平岡頼勝というものがいました。ちょっとややこしいのですが、彼と黒田家は関係があります。

長政の伯母(櫛橋光の姉)は上月十郎の妻です。上月十郎と櫛橋氏の間に生まれた女性が、平岡頼勝の妻にあたるのです。つまり、長政にとって母方の従姉の夫が、平岡頼勝になるわけです。

秀秋の家臣である河村越前之正は、かつて井上平兵衛と名乗っており、黒田家臣・井上九郎右衛門の弟でした。
長政はこの関係に目を付け、早くから秀秋の調略におよんでいたわけです。

ご存じの通り、関ヶ原の戦いは一日で終わります。小早川秀秋は裏切り、毛利家は弁当を食べているという見え見えの弁明をして動きませんでした。

関ヶ原の戦いにおいて、黒田父子が働きがいかに大きかったか、おわかりいただけたでしょうか。父・官兵衛と比較され、偉大な父に対して凡庸な息子とされることもある長政。実際にはそんなことは決してなく、知略に優れた人物であることもわかります。関ヶ原後の恩賞で優遇され、大大名にまでのしあがったのも納得できる話です。

吉川広家側も、官兵衛との交渉をうまく利用しました。関ヶ原の後は、【毛利家をそそのかした安国寺恵瓊がぜんぶ悪い】と、トカゲの尻尾を切って、同家の救済に成功しております。

これも官兵衛との事前打ち合わせがあればできたこと。取り潰しという最悪の事態は、なんとか逃れたのでした。

官兵衛、九州で平定

関ヶ原の戦いで、官兵衛は東軍として九州で戦いました―なんて書くとアッサリしているように思われますが、実のところ九州での東軍は少数派。九州や東北では、西軍のほうが有利な状況でした。

ただし、官兵衛には力強い味方もおりました。熊本城を建てた名将・加藤清正です。官兵衛と激突したのは、大友義統率いる軍勢です。かつて大友氏は、朝鮮出兵の際に「戦意が低い」として見せしめのように改易されました。豊臣秀頼は、そんな義統に豊国速水郡を与えます。義統は、念願の豊国入りを目指したいたわけです。

官兵衛は正面からぶつかることはせず、西軍につく不利を説き、説得にあたったものの不発でした。義統の動きに困ったのが、主君・細川忠興の留守を守っていた家臣・松井康之です。康之は杵筑城からの脱出をはかるも、失敗。この康之救出に官兵衛が駆けつけ、義統と激突したのが石垣原合戦です。

官兵衛は義統を生け捕り、家康から賞賛を受けました。そしてここからが、彼の切り取り本領発揮です。敗報で逃げる一方の西軍を倒し、領土を得るために戦うわけです。同様の行動は、伊達政宗や最上義光も取っています。これが清正とともに九州を支配してやるぞ、くらいの勢いでして。まさにノリノリです。最終的には薩摩への侵攻も企画していたのですから、どうにも勢いが止まりません。官兵衛は家康の勝利を見越して戦っています。家康に右手を握られた長政に「そのとき左手は何をしていたのだ」と言った逸話は真実であるとは思えません。そんなことしても、徳川秀忠やその他の堅強な家臣団、はたまた徳川方の武将が健在である以上まったく意味がありません。西軍を取り込もうと画策しようにも、その瞬間に敵として戦っているわけです。

悔い無き最期

ともかくも関ヶ原の戦いで、首尾よく東軍は勝利。東軍の裏切り交渉請負人として、武将として、類いまれな活躍をした黒田父子は、筑前一国52万石という、大大名にのしあがります。播磨の小さな家の、家臣から52万石の大名にのぼりつめました。

慶長9年(1604年)、官兵衛は病に伏せました。遺言はシンプルで葬儀は地味に、国を治め、民を安んじるよう長政に伝えます。

【辞世】おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて
【意訳】思い残す言葉もなく、ついに最期の時を迎えた。この先道にも迷わない。なるがままに任せよう
人生に後悔を残さない、そんな気持ちが伝わってきます。そして慶長9年3月20日(1604年4月19日)、死去。
享年59でした。


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