人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 毛利元就 | 人は食べた物で創られる

人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 毛利元就

戦国武将編
  1. 毛利元就
      1. 一年の計は春にあり、一月の計は朔さくにあり、一日の計は鶏鳴けいめいにあり
      2. 百万一心(ひゃくまんいっしん)
      3. この矢一本なれば、最も折りやすし。 この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ
      4. 言葉は心の使いである。言葉によって、その人が善か悪か、才能があるかないか、剛勇か臆病か、利口か愚かか、遅いか速いか、正直か正直でないか、そうしたことがすぐにわかるものだ。
      5. 中国地方の全部とは愚かなことだ。天下を全部持つようにと祈ればよいものを。天下を取ろうとすれば、だんだん中国地方は取れる。中国地方だけを取ろうと思えば、どうして取れるだろうか。
      6. 国に法度を立てることは、すなわちわが心の邪正賢愚を表す道である。無道の法を置けば亡国の発端となる。その国に入ってその政治を聞けば、国主の心を知ることができる
      7. われ、天下を競望せず
      8. 友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
  2. 人生
    1. 誕生~家督継承
      1. 父弘元の苦悩
      2. 両親と死別し、養母に支えられる
      3. 初陣と家督相続争い
    2. 大内氏傘下で勢力拡大
      1. 高橋氏を討伐
      2. 尼子攻めを再開
      3. 大内氏、尼子に大敗して弱体化の道へ…
    3. 元就の婚姻戦略
    4. 四カ国支配の大名へ
      1. 陶晴賢の台頭
      2. 陶氏、大内氏を撃破
    5. 石見銀山争奪戦
    6. 元就、中国の覇者へ
      1. 尼子氏滅亡
    7. 元就の晩年
      1. 四国、九州への出兵
      2. 尼子再興軍が蜂起
    8. 関連

毛利元就

毛利元就(もうりもとなり)は、一代で中国地方の覇権を手に入れました。 毛利家は小さな領主にすぎませんでしたが、元就は様々な知略・戦略を駆使し、 後の世に名を残す戦国大名に成長しました。 知将と言われ、非常に頭がよく戦略家だった元就は、数多くの名言を残しています。 その名言のひとつひとつが、現在に生きる私たちにも通じるものがあると思います。

一年の計は春にあり、一月の計は朔さくにあり、一日の計は鶏鳴けいめいにあり

【一年の計画は春に立て、一ヶ月の計画は(その月の)一日に立て、一日の計画は朝に立てる】 春が一年の始まりですから、春には一年分の計画を立てなさい。 次に今月するべき目標をその月の始めに立てなさい。 そして、その日の計画は朝に立てるように。 始めに計画を立てれば、おのずと今するべきこと、しなくてはならないことが分かってきます。 物事を始めるのには、しっかりと計画を立てることが大切です。 計画を立て、その目標に向かってコツコツと努力していくことが大切だと教えているのです。

百万一心(ひゃくまんいっしん)

【百万の心を一つにする】 みんなが心を一つにして、一致協力すれば、成し遂げられないことはない。 これは、吉田郡山城よしだこおりやまじょうの拡張工事の際に、人柱のかわりに埋めた石碑に書かれていた言葉です。 工事を進めるなかで、どうしても崩れてしまう石垣があり、人柱を立てるしかない、 と家臣が進言したところ、元就は「「百万一心」と石碑に彫って人柱のかわりに埋めろ」、と命じました。 それから石垣は崩れることなく、工事は無事に終わったということです。 家臣が協力し、団結することの大切さを説いているんですね。

この矢一本なれば、最も折りやすし。 この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ

【一本の矢は簡単に折れてしまうが、束になれば折ることは難しい。お前たち、このことを良く考えて、力を合わせなさい。必ずそむいてはいけない】

三本の矢の教えは、この言葉から後の世につくられたといわれています。

言葉は心の使いである。言葉によって、その人が善か悪か、才能があるかないか、剛勇か臆病か、利口か愚かか、遅いか速いか、正直か正直でないか、そうしたことがすぐにわかるものだ。

言葉には思いを伝える力があります。相手にたいして心ある言葉、やさしい思いやりのある言葉は人を幸せにします。
会話をしていて気分よく話せない場合、不愉快な思いをさせようとして使った言葉でなくても、配慮が足りないと結果として失礼になってしまうことがあるかもしれません。何気ない一言が相手の気持ちを左右することがあります。
言葉は使い方ひとつです。つねにポジティブな言葉が、人を元気づけるとは限りません。ネガティブな言葉でも、誰かを喜ばせ、誰かを救い、誰かを励まします。日常の心の持ち方が言葉に表れます。相手の気持ちを尊重して、その場の雰囲気に十分配慮しながら自分の気持ちを伝えることで、良い人間関係を築くことができます。
会話の技術がいろいろ紹介されていますが、技術は手段です。どんなに流暢に話しをして相手を納得させても、言葉に心をこめていないとただ聞き流されてしまいます。同じ言葉の使い方でも人を癒やし、人の心を和ませ、幸せにする言葉を使いたいものです。
普段から自分の気持ちを素直に伝えていないと、相手に分かってもらえないことや、時間がかかってしまうことがあります。そんな場合、「うまく言葉にできないけど」と前置きして素直な気持ちを表現してもいいかもしれません。
心に考え思っていることは,自然に言葉に表れます。そして心を開いてくれる人に、人は心を開きます。自分の感情も、相手の感情も否定せずに受け止めることが重要です。

中国地方の全部とは愚かなことだ。天下を全部持つようにと祈ればよいものを。天下を取ろうとすれば、だんだん中国地方は取れる。中国地方だけを取ろうと思えば、どうして取れるだろうか。

なんとなく毎日が日々の忙しさで過ぎてしまう。気が付くと、何も前へ進んでいない、何も変わらない自分がいる。こんな経験がよくあります。
漫然とやっていたのでは、何も変わりません。目的をしっかりと持ち、まずは目標を立てることが必要ですが、いきなり立派な目標を立てても上手くいきません。目標を立てるときに、長期的な目標を立ててしまうと、自分の環境が変わることがあり、時代とともに自分が大きく変化してしまうので、意味がありません。
まずは一か月先の目標を立てることです。次に「どのように目標を立てるか」ですが、まず、自分の受け持っている仕事に、どういう目標があるかを知ることです。その目標を達成するにはどうすればよいかを考えることによって、自分の目標が見えてきます。
仕事の目標を達成するためには、自分は何をすべきかを考えます。これが「自分の目標」になります。今までと同じ仕事のやり方で目標を達成できるのであれば、そのまま、ミスなくこなすことも大事ですが、日々、追われるように仕事に取り組んでいる方は、忙しさは変わりません。体調を壊す原因にもなります。そのため自分の目標が決まったら、仕事に対して、効率を追求することや、改善が必要となります。
自分を取り巻く環境が日々変わるため、そのときどきに合わせて、目標を修正してもいいと思います。大切なのは、どんなに小さな目標でも達成する経験をして、自分に自信をつけることです。

国に法度を立てることは、すなわちわが心の邪正賢愚を表す道である。無道の法を置けば亡国の発端となる。その国に入ってその政治を聞けば、国主の心を知ることができる

会社の内情は実際に働いてみないとわかりません。多忙なのに割に合わない仕事の可能性があります。
給与、勤務時間、休日など労働条件が労働法に違反している。
リストラやボーナスカットを突然実施する。
年棒制のため残業時間が60時間以上あっても残業代がでない。
有給休暇を取得しにくい。文句や不満を言わせないような社内の雰囲気がある。
事業そのものがなんらかの法令に違反している。
多忙すぎる会社で残業が多くプライベートの時間が取れない。
職場での人間関係の悩みや、仕事内容が合わない。
どこの会社で働いても、何かしら不平不満があって、こんなつもりではなかったと思うこともあります。
業界平均より高い賃金だと働く意欲もでてきますが、勤めた最初の賃金から大幅上昇する可能性が極めて低い場合は、離職率が高く仕事環境があまり良くありません。もし自分に合わない職場に入社してしまった場合は、我慢して長く勤めるより、スキルアップが期待できる職場に転職することも選択肢の一つです。
大企業でも社員の給与が定年まで上がり続けることはなくなり、雇用の保障もしない会社が増えています。使い捨てが許されるような社会状況になっていますので、離職率が高い会社には注意が必要です。長く勤めていても使い捨てにされる可能性があります。それで心身が崩れてしまっては何にもなりません。
会社というのはそもそも営利企業なので、社員の人生を背負うことより、会社の維持発展が優先事項です。そのため会社のために働くよりも、自分のために働くことを優先してもいいと思います。自分の市場価値を上げることが、自分の身を守ることになるからです。
自分に合わない会社に忠誠心をもって働くよりも、自分の望む働き方をじっくり考えることが幸せにつながります。

われ、天下を競望せず

大内氏と尼子氏を打ち破り、中国地方を制覇した毛利元就は三人の息子たちへの遺訓のなかで、
『天下をとろうとしてはいけないし、その争いに巻き込まれてもいけない、自国の領土を堅く守るべきだ』と戒めていた。
天下を狙えるだけの力をもっていたが、元就は時の運によるものとして、それ以上望むべきではないとした。有力な戦国武将としては珍しい!
当時元就はすでに隠居を願う高齢、敵の大内氏、尼子氏が天下を望んで滅んでいく様子を見てきた。なので毛利家が同じようにならないよう息子たちに諭したといいます。

友を得て なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は

毛利元就は安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、一代で中国地方を制覇します。
傑出した戦略家・謀略家。戦国時代最高の智将、「謀神」とも呼ばれ、用意周到な策略で自軍を勝利へ導く稀代の策略家でした。
毛利弘元の次男として生まれ、幼名を松寿丸といいます。父・弘元が、三十五歳の若さで隠居すると、嫡男幸千代丸に、家督と本城である吉田郡山城を譲り、自身は元就を連れて猿掛城に移りました。五歳のときに母を十歳のときに父を相次いで失った元就は、幼くして猿掛城主になりますが、家臣の裏切りに遭い、猿掛城を追われます。
その困窮した境遇を「乞食若殿」と揶揄されるなか、継母の杉大方に養育されます。兄が急死したため、家督を幼少の嫡男が継ぎ、元就が後見することになりました。
幼い主君に代わり戦場に出た元就は抜群の活躍を見せ、毛利家中の信望を集めます。主君が九歳で夭折すると、重臣たちの推挙で元就が家督を継ぎました。
毛利氏ははじめ尼子氏に仕えていましたが、当主経久が元就の家督相続に反対したため、尼子氏と次第に敵対関係となり、大内義興の傘下となります。
尼子晴久が三万の兵で元就の本拠地である吉田郡山城を攻めた際に、兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣。敗北しますが、大内氏の援軍もあり尼子軍を退けます。
元就には九男二女がいて、長女を甲立城の城主、穴戸元源に嫁がせると、二男、元春の妻には備中高松城の熊谷信直の娘を迎えて、元春を吉川家に養子に入れ、また三男、隆景には沼田小早川の娘をめとって、隆景を小早川氏へ養子に出し毛利家に組み込みます。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしました。
1551年 陶晴賢は主君である大内義隆を討ち大内氏の実権を握ると元就は一応の協調姿勢をしめしながら勢力を広げます。
しかし陶晴賢との関係が悪化して対立すると、厳島の戦いで多数の謀略を張り巡らせ、陶軍の兵力約二万を毛利軍はわずか四千でやぶると、大内氏の領地を手中に収め一躍大国の大名に成長します。
1563年に宿敵尼子氏を攻めている最中に長男の隆元を亡くします。元就は悲しみに耐えながら、跡をついだ孫の輝元を補佐します。
1566年に尼子氏を倒し中国地方の覇者になると孫の輝元を次男元春、三男隆景にたくして亡くなります。享年七十五歳でした。

人生

誕生~家督継承

元就は明応6(1497)年、毛利家当主・毛利弘元の次男として安芸吉田の郡山城に誕生しました。幼名は松寿丸。母は福原広俊の娘です。

毛利家は南北朝時代より安芸国吉田庄(広島県高田郡吉田町)に定住し、国衆として成長。弘元の代に至ったころには、安芸国の有力国衆の中で頭角をあらわします。しかし、当時の安芸国は北九州と中国地方に絶大な勢力を誇る守護大名・大内氏の勢力下にあり、毛利家もショセンは一国衆にすぎませんでした。

父弘元の苦悩

一方、中央では「明応の政変」によって将軍足利義材が追放されて以来、管領の細川政元が幕政を牛耳っていました。

時の将軍12代足利義澄は、政元の傀儡でしかなく、足利義材(のちの義稙)は京都の奪還を虎視眈々と狙っていました。 明応7(1498)年以降、義材が大内氏の元に身を寄せると、応仁の乱以来鎮まっていた「大内氏 vs 細川氏」の対立が再燃。弘元はその狭間で悶々と苦しみます。

明応9(1500)年、弘元は大内氏と細川氏の圧力から逃れるべく、わずか8歳の嫡男・幸千代丸(のちの毛利興元)に家督を譲り、二男の元就をつれて猿掛城に逃げ込みます。幼少の元就はその後、次々と不幸にみまわれることになるのです。

両親と死別し、養母に支えられる

元就は、文亀元(1501)年に母を亡くし、永正3(1506)年には父・弘元も酒毒で亡くなります。彼は「大内氏、細川氏のいずれに従ったものか」と散々悩んだ挙げ句、酒に溺れて死に至ったようです。

これにより、元就はわずか10歳にして孤児に。さらには毛利家臣ぼ井上元盛に所領を横取りされて、城からも追い出されてしまうのです。

そんなかわいそうな元就を支えたのが父弘元の継室・杉大方でした。

彼女は再婚もせずに元就を養育。元就は永正8(1511)年に15歳で元服し、”多治比(丹比)元就” を名乗って分家を立てます。20歳になった永正13(1516)年には兄・興元をも酒毒で亡くします。このとき興元の嫡男幸松丸がまだ幼かったことから、叔父の元就が後見役をつとめることとなりました。

初陣と家督相続争い

元就の初陣は永正14(1517)年の有田中井手の戦いとされており、このとき安芸武田氏を撃退して家中での名声を高めます。さらに大永3(1523)年には安芸鏡山城を陥落させています。

この頃の中国エリアは、大内氏と尼子氏という二大勢力が石見をめぐって対立しており、毛利をはじめとする周辺の国衆たちはその狭間でどちらの味方になるか苦悩していました。当時の安芸鏡山城は大内氏の支配下にあったので、この時点で元就は尼子氏に属していたようです。

この年は元就にとっての転機となります。というのも幼君・幸松丸がわずか9歳で亡くなり、毛利家中において後継者争いが勃発するのです。

元就にとっては家督を継ぐチャンスでしたが、彼が自ら行動を起こすことはなかったようですが、結局は家臣らの推挙によって後継者に担ぎ出されています。元就は重臣たちの期待の星だったのか、このとき毛利一門・譜代重臣15名の連署書状が作成されています。

しかし、その後の家督継承はスンナリとはいきませんでした。これを不満とした一門衆、坂広秀・渡辺勝らが元就の異母弟である相合元綱を擁立し、元就暗殺計画を企てたからです。

尼子氏もこの対抗勢力に肩入れして、毛利家のお家騒動に介入していたらしいです。しかし、元就はこれに先手を打って元綱を倒し、晴れて毛利家のトップの座を射止めることになるのです。

大内氏傘下で勢力拡大

元就は家督継承を機に尼子氏から離反。大永5(1525)年には再び大内氏傘下であることを明確にします。以後は大内氏の権勢を背景に勢力拡大へと向かいます。

高橋氏を討伐

享禄2(1529)年、勢力拡大の第一歩として高橋氏一族を討伐します。

高橋氏は兄・興元の正室の実家で、元々は友好関係にあり、その所領は安芸国と石見国にまたがっていて備後国や出雲国にも入り込んでいました。つまり、大内氏傘下の国衆連合の中でも「盟主」の地位にある大きな国衆でした。

しかし、先の家督争いの際には相合元綱に加担していたため、これを許さなかった元就は高橋氏を滅ぼし、安芸から石見にかけての広大な領土を得るのです。

こうして毛利氏は大内氏傘下の国衆連合のトップの座に一気に躍り出ます。

尼子攻めを再開

元就が再び大内氏に従属して以降、尼子・大内両氏は和睦状態にありました。尼子氏ではお家騒動があり、一方の大内氏も北九州で大友氏や少弐氏と争っていました。つまり、「お互いに無用な争いは避けましょう」と、双方が勢力維持できる道を選んだということです。

この間、毛利氏と大内氏の関係は強化されていきます。

まず天文2(1533)年、元就は大内義隆の推挙で従五位下・右馬頭に任じられます。そして天文6(1537)年には元就嫡男の少輔太郎(=毛利隆元)を人質として大内氏に差し出します。このとき大内義隆から一字を拝領して”隆元”と名乗らせています。

同年、尼子氏では血気盛んな尼子詮久(のちの尼子晴久)が家督を継承していました。やがて大内氏と大友氏が和解すると、尼子氏と大内氏の和睦が破たんして、晴久もついに元就討伐を決意。天文9(1540)年、3万もの尼子の大軍が、元就の居城である吉田郡山城に攻め込んできます。(吉田郡山城の戦い)

当初、元就は尼子方の圧倒的な兵力を前に籠城戦で挑むしかありませんでした。しかし、大内義隆の重臣・陶隆房(のちの陶晴賢)率いる1万もの援軍を得ると形勢は逆転!翌年には尼子軍を撤退させることに成功したのです。

戦後、元就の威勢は鳴り響き、さらに尼子経久が死去したことも手伝って、尼子方の国人衆らは相次いで大内氏、および毛利氏に転じました。また同じ頃に安芸武田氏が滅亡。元就は安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いていきます

大内氏、尼子に大敗して弱体化の道へ…

一方、大内義隆は経久の死を好機ととらえました。陶隆房らの勧めもあって、天文11(1542)年、 尼子の本拠・出雲国への遠征に打って出ます。これが、大内軍の大敗を招く第一次月山富田城の戦いです。

この遠征で大内軍は「ちからワザ」でねじ伏せにいったが、守りが堅い富田月山城を攻略できませんでした。兵糧の欠乏や大内氏に転じたばかりの吉川興経ら安芸国人衆の寝返りなどもあり、撤退を余儀なくされます。このときの撤退では、外様の家臣だった元就は殿を命ぜられ、尼子軍の追撃の中を命からがら逃げ帰ることになりました。

この大敗の影響で、以下のように大内氏の勢力は後退していきます。

  • 大内義隆は合戦を忌み嫌い、文化に傾倒するように
  • 大内家中で武断派だった陶隆房の権勢が弱まり、文治派が台頭
  • 義隆と陶隆房の間に軋轢が生じるように。
  • 大内氏の弱体化により、安芸・備後での尼子氏の勢力が復活

元就の婚姻戦略

一方で、元就は勢力拡大のため、次々と養子・婚姻政策を推し進めました。この動きこそ、合戦だけでなく計略性にも富んだ元就の真骨頂です。

  • 天文10(1541)年、竹原小早川家の当主・小早川興景が病死する。
  • 天文13(1544)年、竹原小早川氏の養子として三男・徳寿丸(小早川隆景)を送りこむ。
  • 天文16(1547)年、吉川氏の養子として次男・元春(吉川元春)を送りこむ。
  • 天文19(1550)年、小早川隆景が沼田小早川家の家督も継承。元就は同年、吉川興経とその子・千法師を粛清し、吉川氏を完全掌握する。

まずは小早川氏に対する政策をみてみましょう。毛利氏とは、元就の兄・興元の娘が竹原小早川家に嫁いで以来、婚姻関係にありました。

徳寿丸が家督を継いだのは、竹原小早川氏の13代当主・小早川興景が病死したときに男児がおらず、 竹原小早川家からの要請があったためです。大内義隆の勧めがあったことも影響したようですね。

隆景は6年後に小早川の宗家にあたる沼田小早川家の家督継承にも成功します。沼田小早川家当主・小早川繁平は若年で病弱な上、盲目だったことから、元就と大内義隆が共謀して隆景に家督を継がせたのです。このとき、反対した沼田小早川家の宿老たちを粛清しています。

次に吉川氏に対する政策を見てみます。

毛利氏と吉川氏は、元就の正妻・妙玖が吉川国経の娘だったことから元々は血縁関係にありました。ただ、吉川氏の本領は出雲の尼子氏と接しており、尼子との繋がりも強いものがありました。実際、当主・吉川興経は第一次月山富田城の戦いで元就ら大内方を裏切って尼子に転じています。

興経は武勇に長けた将でした。そこで元就は「興経は手強いから、なんとしても武力衝突は避けねばならない…」 と養子戦略を練ります。

元就は次男・元春を養子とする代わりに、興経の命の保証を約束。また、興経の嫡子・千法師を元春の養子にして、ゆくゆくは家督を継がせるという約束も取り交わしました。しかしのちに元就は無情にも興経、千法師ともども暗殺し、吉川家を乗っ取ることになります。このあたりには元就の冷徹さも垣間見えます。

こうして、元就は安芸の名族として知られた小早川・吉川の両氏を一族に組み入れました。いわゆる “毛利両川” と呼ばれる体制を築いたのです。

四カ国支配の大名へ

陶晴賢の台頭

天文20(1551)年、大内氏では、文治派の台頭によって排除されていた陶隆房がついにクーデターを敢行。長門大寧寺で大内義隆を自害に追い込みました。(大寧寺の変)

隆房は翌年、義隆の養子だった大友晴英(大友宗麟の異母弟、のちの大内義長)を擁立。隆房は “晴賢” と改名して大内氏の実権を掌握します。

元就はこのクーデターに関してウラで同意していたとされています。事実、このクーデターの後、元就は陶晴賢に従属しています。しかし、嫡男の隆元は、「陶晴賢はいずれ毛利にも攻めてくるはず。油断ならない!」と主張し、陶氏打倒を唱えていました。のちに元就もこの主張を受け入れ、やがて陶氏と決別することになります。

こうした中で天文23(1554)年、石見の吉見正頼が晴賢に叛旗を翻し、三本松城の戦いが勃発。吉見氏は同じ大内家臣でありながら、陶氏とは応仁の乱以来の仇敵でもありました。

このとき、元就は吉見氏と晴賢の双方から出陣要請をうけ、「どちらにつくのが得策か…」としばらく様子を見ていましたが、ついに晴賢との決別を選択。兵を挙げて、安芸から晴賢勢力を一掃します。(防芸引分)

これに対して晴賢はすぐさま元就討伐の軍を派遣。安芸国の折敷畑山で両軍は激突するものの、元就が勝利します。(折敷畑の戦い)

弘治元(1555)年の厳島の戦いでは、毛利軍が兵力差で圧倒的に不利でしたが、元就の類まれな計略により陶晴賢を滅ぼしました。

この後まもなく、晴賢に父を謀殺されていた大内家臣・杉重輔が陶氏の居城・富田若山城を襲撃し、晴賢の遺児・陶長房を討っています。

陶氏、大内氏を撃破

大内氏は晴賢の死だけでなく、家中では私闘や離反も重なって、弱体化に拍車がかかっていまし。元就はこれに乗じて周防と長門の制圧に乗り出すが、いざ侵攻をはじめると毛利勢に抵抗する一揆が頻発。というのも、防長の両国はこれまで大内氏が長く統治してきたため、新興勢力である元就の侵略に反感を強めていたのです。

翌弘治2(1556)年には一揆の勢いも一段落し、鎮圧されます。元就はその後、尼子氏を牽制するため、二男・吉川元春を石見国に出兵させ、石見銀山を奪取することにも成功しています。

一方、同年の防長への侵攻では、毛利勢の前に都濃郡須々万の沼城が大きく立ちはだかりました。この城は、三方が深い沼池に固まれた城塞だった上に、大内氏の援軍や一揆軍も加わって籠城したため、陥落までに1年以上を要します。翌年、激戦の末にようやく沼城を陥落させると、その後まもなく大内義長は自害、大内氏は滅亡しました。(防長経略)

これにより、元就は安芸・備後に加え、周防・長門を支配し、4か国を有するまでになります。

石見銀山争奪戦

前に述べたとおり、元就は石見経略にあたって、周防制圧と並行して二男・元春を出兵させ、大内氏の支配下にあった石見銀山を奪取。しかし、永禄元(1558)年には尼子晴久に石見銀山の山吹城を落とされ、石見銀山を奪われてしまいます(忍原崩れ)。これをきっかけに毛利氏と尼子氏による石見銀山争奪戦は激化。

こうした中、翌永禄2(1559)年になると、将軍権威の再建を目指した13代将軍・足利義輝が全国の和平調停に動き出しました。中央では三好長慶が幕府と京都の実権を握っており、これに将軍義輝と細川晴元が敵対してきましたが、ここにきて義輝は三好氏と和睦して協調関係を築いていたのです。

毛利氏と尼子氏の両者も、幕府からの使者を通じて和平勧告がなされました。しかし、石見制圧を急ぐ元就は幕府の言うことを聞かず、石見に繰り返し出兵しています。

永禄4(1561)年になると、九州方面では大友氏の攻勢が激化し、毛利方の豊前門司城にまで攻撃を加えてきました。一方、石見では元就から所領を替地にされ、不満を抱いていた福屋隆兼が反毛利の兵を挙げていました。結果、元就は豊前と石見の2方面に対処するハメとなります。

「さすがに、これ以上の負担は危険すぎる…」

元就はついに尼子氏との和平調停に応じ、翌年にかけて和睦を成立させています。(芸雲和談)

和睦後の永禄5(1562)年、元就は福屋隆兼を攻略、続いて尼子方で石見銀山を守備する本城常光を降伏させました。これにより石見経略が成ったのです。

元就、中国の覇者へ

石見経略によって毛利の威光はさらに強まり、出雲国の有力国衆も毛利方に服属するようになります。

勢いを得た元就は、尼子氏との和談成立から半年もたたないうちに、この和談の破棄を通告しますが、さらには、破棄して1カ月もたたずに出雲国への侵攻を開始。元就の切り替えはさすがというべきでしょう。

対する出雲の尼子氏は、大友氏と連携。毛利方の豊前松山城を大友方に攻めさせました。元就は九州豊前の救援に隆元を向かわせることになります。

翌永禄6年(1563年)、隆元が九州戦線の任に当たると、豊前での「毛利 vs 大友」のにらみ合いは膠着状態に入ります。しかしその後、幕府から和平調停の使者が訪れると、毛利・大友両氏の争いは収束に向かい、翌年までに和談となっています。(芸豊和談)

こうした情勢から、隆元は尼子攻めのために軍を返すことになりました。しかしその帰り道、安芸国で兵を整えて滞陣している最中、酒宴の後に謎の急死をとげます。死因は食あたりとも毒殺ともいわれている。元就は隆元の死を知って深く歎き悲しんだという。

その後まもなく、元就は「とむらい合戦」と称して、尼子氏の支城である白鹿城を攻撃し、2ヶ月間の攻防戦で陥落させました。(白鹿城の戦い)

尼子氏滅亡

この勝利以降、毛利方は尼子の本拠・月山富田城の包囲網を構築すべく、支城をジワジワと攻略。海路の補給線を断つなどし、永禄8年(1565年)の春には富田城へ最初の総攻撃を開始。元就はこの戦いで味方の犠牲を最小限に抑えるべく、持久戦で臨みました。

翌永禄9(1566)年2月頃、元就は陣中で一時危篤状態に陥ったものの、名医・曲直瀬道三の治療で回復したとされています。このとき元就はすでに70歳という高齢だった。

やがて富田城の兵糧は欠乏していき、城からの脱走者も続出すると、同年11月、ついに尼子氏が降伏。元就は中国地方8ヶ国支配という偉業を成し遂げたのです。(第二次月山富田城の戦い)

元就の晩年

四国、九州への出兵

尼子を滅ぼした後、1年余りは合戦もありませんでしたが、永禄11(1568)年の初めには、四国伊予の河野通直から援軍要請が届きます。河野氏と対立する宇都宮氏が、土佐の一条氏や長宗我部氏らの支援を受け、攻め込もうとしていました。これを受けて元就は、四国への出兵を決意します。

河野通直は元就の孫にあたる宍戸隆家の娘を娶っており、河野氏は元就が危機の際にはたびたび支援に回りました。元就はこの恩に報いるために兵を出したとされています。吉川元春・小早川隆景・宍戸隆家ら3万の軍兵を渡海させると、宇都宮氏を降伏させています。

続いて九州にも出兵。毛利氏と九州の大友氏とは和談していましたが、毛利に心を寄せる豊前、筑前の国衆が増え、大友一族の中にも毛利氏に通じる者が現れはじめました。これにより、戦いが再燃したのです。

大友一門だった立花鑑載の立花城が大友軍に包囲されると、毛利両川は救援に向かいます。しかしこれは間に合わず、立花鑑載は自害。毛利はひとまず九州から撤退しました。翌永禄12(1569)年には毛利両川4万余の大軍で再び九州へ侵攻。豊前の門司城を奪取して拠点にすると、前年に大友に奪われていた立花城をも攻め落としています。

尼子再興軍が蜂起

しかし同年、元就は一時的ではあるが、窮地に追い込まれました。山中鹿之介が尼子国久の孫勝久を擁立して主家・尼子氏の再興軍を、さらには大内義隆の従兄弟・輝弘が大内氏の再興軍をそれぞれ興したのです。

実はこれら反毛利勢力の蜂起は、いずれも大友氏が毛利氏の後方撹乱のために仕掛けたものでした。元就はやむなく九州から撤退し、山口に転戦。すぐさま輝弘を自害に追い込みました。(大内輝弘の乱)

一方、山中鹿之介ら尼子再興軍との戦い(布部山の戦い)は容易ではなく、以後も数年にもわたって続くことになります。

元就はその結末を知ることなく、元亀2年(1571年)、吉田郡山城にて75歳で永眠します。戦国最高の知将の生涯は、まさに合戦に継ぐ合戦だったといえます。

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