人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 伊達政宗

戦国武将編

伊達政宗(だて-まさむね)は、戦国時代の1567年8月3日、米沢城にて誕生。父は伊達輝宗、母は最上義守(山形城主)の娘・義姫19歳(最上義光の妹)、この義姫が嫁ぐ前には、伊達家と最上家は対立していました。伊達政宗の幼名は梵天丸とです。

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  1. 伊達政宗の名言
      1. 物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。
      2. まともでない人間の相手をまともにすることはない。
      3. 仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
      4. 大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。
      5. 朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。
      6. 気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
      7. 馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理してもてなす事である。
      8. 今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して娑婆の御暇申すがよし。
      9. 仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。
      10. わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがりたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。
      11. 人がこの世へ生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は方六尺の穴一、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一として我に伴うはない。我は客人であったのである。
      12. 曇りなき 心の月を 先だてて浮世の闇を 照してぞ行く
  2. 政宗の人生
    1. 奥州の覇者誕生
    2. 戦いに明け暮れた前半生
    3. 3度の試練
      1. (1)小田原城包囲戦に大遅刻
      2. (2)「一揆」を裏で扇動
      3. (3)豊臣秀次謀反での関与
    4. 徳川家へ
    5. 最期の瞬間
  3. 人物像
    1. 関連

伊達政宗の名言

物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。

まともでない人間の相手をまともにすることはない。

仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。

大事の義は人に談合せず、一心に究めたるがよし。

朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来客の身に成れば好き嫌ひは申されまじ。

気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。

馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理してもてなす事である。

今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して娑婆の御暇申すがよし。

仮初にも人に振舞候は、料理第一の事なり。何にても、其の主の勝手に入らば、悪しき料理など出して、差当り虫気などあらば、気遣い千万ならん。

わきて釣りには他念なきものなり。太公望、おもしろがりたるも道理かな。罪も報(おくい)も後の世も忘れはてておもしろやと、げにさもあらずるものを。

人がこの世へ生まれて百万長者も、最後に及んで要する所は方六尺の穴一、戒名を刻んだ石碑一つで、家も、倉も、金も、地所も、妻も、子も、すべてを残して、死出の旅路をただ一人辿る。曾(かつ)て我が者と思ったもの、一として我に伴うはない。我は客人であったのである。

曇りなき 心の月を 先だてて浮世の闇を 照してぞ行く

政宗の人生

奥州の覇者誕生

 伊達政宗は、永禄十年(1567年)に、伊達家16代当主、伊達輝宗の長男として誕生しました。

奥州藤原氏の血筋の名門です。4歳のときに疱瘡(天然痘)にかかってしまい、命はとりとめましたが、右目を失明してしまったといわれます。伊達政宗といえば「眼帯キャラ」ですね。

でも、この「右目エピソード」だけでもとても多彩で、いろ~んな説があってよくわからんのです。右眼の肉が盛り上がって目玉が飛び出たようになってキモかったとか、実は、失明なんてしてなかったとか、実は実は、オッドアイだったのを隠すために布を巻いていたのだとか、いろいろささやかれております。

幼少時の政宗は引っ込み思案の大人しい子どもで、疱瘡であばた顔になってしまい(右目の失明もあって)ますます内向的になったそうです。

そのため家臣からは武家の跡継ぎには相応しくないと思われ、母親にも拒絶されて弟ばっかりかわいがられて、寂しい幼少期を過ごしたというのが、よく聞く伊達政宗の物語です。

二次創作意欲が、かきたてられる幼少期ですね。でも、父親の輝宗は、ずっと政宗こそが跡継ぎと考え、主君として大切に育てました。

まず、政宗が5歳のとき、名僧と名高かった虎哉宗乙(こさいそういつ)を家庭教師にまねき、教養と帝王学をみっちり学ばせました。

さらに「傅役(もりやく)」としてまだ年若かった片倉小十郎景綱を抜擢し、さらに伊達成実を近習としてつけたのです。小十郎は政宗より10歳ほど年上で、彼の姉は政宗の乳母というつながりもありました。この片倉小十郎と伊達成実は、それぞれ後に優れた「智将」と「武将」になり、伊達家を支える双翼になりました。お父さんの人選は、素晴らしいです。人を見る目があったんでしょうね。

戦いに明け暮れた前半生

 伊達政宗の前半生は、戦争に明け暮れる日々でした。政宗が若い頃、東北地方はまだまだ群雄割拠の状態だったのです。まず、彼は1581年にわずか14歳で初陣を飾り、その3年後には17歳で父から家督を譲り受け17代伊達家当主に就任しました。

当時、伊達の周りには佐竹、芦名、結城、相馬、二階堂、岩城などがいて、領土を広げようと競い合っていました。

父の輝宗は政略結婚など外交的な手段で、近隣との力の均衡を保っていたのです。でも、政宗は違いました。

彼が当主となった翌年、大内が芦名氏に急接近したのを知った政宗は、「小手森城(おてのもりじょう)」を攻撃し、女子供にいたるまで約800人をなで斬りしました。これは東北地方の衝撃ニュースですよ。

当時の東北は伊達と芦名が二大勢力で、大内と畠山がどちらにつくかで力関係が変わるという微妙な状態だったのです。この若造は危険だと思った畠山義継は伊達に服従の意を示し、和睦のためと言って帰り際に父の輝宗の元を訪れます。そして、そのまま輝宗を拉致してしまったのでした。政宗はこのとき鷹狩に行っていた?などと言われますが、知らせを受けるとすぐに鉄砲隊をともなって駆けつけました。

そうして、拉致され人質になっていた父・輝宗もろとも畠山を討ったのです。この事件は「政宗、手際が良すぎないかい?」と怪しまれることも多いのですが、流石に父親殺害は仕方がなかったことでしょう。その後、政宗はすぐさま「弔い合戦」に出ます。それが人取橋の戦い」でした。この「人取橋の戦い」は、南奥州連合軍と伊達の戦い、つまり四面楚歌の状態で、戦略的にフルボッコされた敗戦でした。

それ以降、1589年に「摺上原の戦い」で蘆名義広(あしなよしひろ)に打ち勝つまで、政宗は戦いに明け暮れる日々を過ごしたのです。

3度の試練

 伊達政宗は「最後の戦国武将」「遅れてきた英雄」などと、呼ばれることがあります。

あと20年生まれるのが早かったら、天下を狙えたかもしれなかったのですが、時すでに遅し、政宗が大人になった頃には豊臣秀吉が天下取りに王手をかけていたのです。

それでもなんとか天下をこの手でと思っていろんなことをやらかし3回ほど本気でヤバイ目にあっています。

自業自得ともいえるのも含まれますが、そういう愛嬌のあるところもまた楽しい人です。

(1)小田原城包囲戦に大遅刻

 1587年、豊臣秀吉が関東や奥州の武将に対して、「惣無事令」という私戦を禁じる命令を下しました。

でも、政宗はそんなの無視で、勢力を拡大する戦いを続けていました。南北朝のころから奥州を統べる名門です。足軽あがりの秀吉なんてフンッという感じです。

それに激怒した秀吉は、政宗に上洛して釈明するように命じ、また、北条氏との決戦「小田原城包囲戦」にも参戦するよう命じたのでした。

それに対し、政宗は命じられた日から1カ月以上も経ってから来たのです。大遅刻ですよ。

秀吉は激怒して、すぐに会おうとしません。そのときに考え出したのが「白装束パフォーマンス」でした。

謁見の日、政宗は髪を切りそろえて垂らし、白い陣羽織をまとった「死装束をイメージさせる姿」で現れたのでした。

「死を覚悟してます」と一見して分かる派手なアピールでした。

派手好みの秀吉の性格を考えて臨んだアピールでした。

このパフォーマンスは功を奏し、また、小田原城が落ちる前にギリギリ間に合ったというのもあって、政宗は死罪を免れたのでした。

この遅刻の原因は故意ではなく、戦の処理や敵が多かったため遠回りしなければいけなかったことによります。(上杉家の領地を通らせてもらった)

(2)「一揆」を裏で扇動

1590年、大崎・葛西で「一揆」が起こりました。

この一揆をなんと伊達政宗が裏で扇動していたというのが発覚したのです。

秀吉に通報されて、またも釈明のために上洛するよう命じられました。

このとき、政宗は前回を上回るパフォーマンスを演じ、何とか乗り切りました。

金塗の貼りつけ柱(キリストの十字架みたいなの)を先頭に立てて、自分だけでなく従う家臣も白装束で上洛というパフォーマンスです。

謁見のときもうまく言い逃れて、なんとかピンチを脱したのでした。 

(3)豊臣秀次謀反での関与

 その後、政宗は表向きは秀吉に従順に従いながら、チャンスをうかがっていました。

朝鮮出兵(文禄の役)」では、まず京を経つときのパレードで、華麗を極めたド派手なパフォーマンスを見せつけました。

高価な黒羅紗(らしゃ)で作られた陣羽織は、背に大きく金色の「家紋」があしらわれています。黒とゴールド、豪華なのに生地が良いので下品になりませんね。センスも流石なのですよ!

袴(はかま)も黒羅紗で金モールが放射状に広がるデザインです。赤い錦のひれ垂に、兜(かぶと)はもちろん黒、クールな形の「黄金の三日月」の前たてが輝いていました。

京の人々は、ふう~~っと感嘆し「絵巻物を見ているようだ」「さすが伊達者、一味違う」と絶賛の嵐だったそうです。で、すごかったのはパフォーマンスだけでなく、戦いでも活躍し、秀吉から感状をもらうほどの奮戦だったとか。

問題のピンチは、その後の1595年のことです。(前置きが長くなっちゃいました)

当時、関白だった秀吉の甥・秀次が謀反の疑いありとされ、秀次は自害、その妻子は三条河原で処刑されることになりました。秀次と仲が良かった政宗もそれに関与していると疑われて、再び釈明しろと上洛を命じられたのです。

このときはさすがに変なパフォーマンスはしませんでしたが、政宗は徳川家康に助命嘆願を願いつつ、京の町で不穏な動きを見せました。まず、秀吉の使者に向かって、「太閤殿下でさえ秀次の資質を見誤られた。片目しか見えない政宗がそれを見抜けなかったのは仕方ないだろう!」と逆切れ。伊達家の門内には武装した兵があふれ、訪れた秀吉の使者に対して「家臣たちは知らない土地に追いやられる(遠島に処せられる)なら討ち死にすると言ってもう制止できない」と見事な演技力を見せつけます。

さらに、徳川の屋敷の前に「最上と伊達による秀吉暗殺計画!」という高札が立ちました。(←家康もグルですね)とにかく、家康を味方にできたというのが勝因だと思うのですが、どうにかこうにか3度のピンチも無事乗り越えられたのでした。 

徳川家へ

 秀吉が亡くなって石田三成が権力を握るようになると、徳川家康が6男忠輝と政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)との婚約を申し込んできました。

家康による諸侯の取り込み作戦の1つです。政宗はかなり政治家っぽい考え方をする人なので、このときは再び戦乱が訪れると予期し、家康と手を結びながらも、姑息に天下を狙おうと考えていたようです。でも、「関ケ原の戦い」で家康が勝利し「征夷大将軍」に命じられたとき、天下を狙うという野望はついえたのかなと思います。

時流に乗れる器量のある人には、すでに戦乱の世は終わり、平和な治世へ変化したと分かったでしょう。政治家的な頭の切り替えのできる伊達政宗は、この頃から「伊達家の永続」と「国(領土)の繁栄」を、君主の第一目標したのでした。

そうして、内政にしっかり取り組みながら、徳川家にどんどんすり寄っていったのでした。(←とても政治家的思考)まず、先述の五郎八姫(いろはひめ)と家康の6男・忠輝が縁組し、さらに、嫡男の虎菊丸(後の忠宗)が家康の庶子・市姫と婚約しました。(市姫病死で破談)

どんどん徳川将軍家との関係を深めていってます。外様なのにがんばってますよ。

「大阪夏の陣では、片腕だった片倉小十郎景綱息子、当時30代の片倉重綱が、武将として大活躍しました。(彼は「鬼小十郎」という異名を持ちます)

ちょっと恥ずかしいぐらいのすり寄り方ですが、徳川家からの信頼はそれなりに得られたようで、2代将軍の徳川秀忠も、政宗に後事を任せました。そして、第3代将軍徳川家光が、就任演説で「余は生まれながらの将軍」というアノ有名な諸侯けん制発言をした際、政宗は真っ先に賛同して忠誠を示したのでした。「じじいコンプ持ち」の家光は、かっこいいじいさん好きで、しかも政宗は大好きな家康との思い出話をしてくれる人なので、かなり好きだったようです。 

最期の瞬間

 1636年、伊達政宗は病を患っていました。

それでも江戸に上る勤めを果たそうと江戸に出向き、そのまま江戸の伊達屋敷で息を引き取りました。亡くなる数日前に、将軍家光が直接お見舞いに訪れています。そのとき政宗は、きちんと身なりを整えて武将らしい恰好で応対したそうです。彼は自分の死期を悟り「終活」も万全に済ませて、妻子に自分の死に顔は見せないようにと信頼できる家臣に厳命していました。

美しく逝こうと決めていたのでしょうね。最後まで演出力も演技力も抜群です。

この辞世の句、めっちゃ好き!
  ↓
「曇りなき心の月をさきたてて 浮世の闇を照らしてぞ行く」

素敵すぎです。美しいです。心が澄んでいるって最期に言えるのいいですね。

なんか、この人、いろいろあったけど充実した人生だったんだなーと思えます。

よく京都の商店街にこれ書いた扇子が売られているのですが、いつか買っちゃうかもしれません。徳川家光は政宗の死を嘆いて、江戸で7日間、京都で3日間、一切の殺生と音曲を禁止するよう命じました。これは異例の対応でした。よっぽど好きだったみたい。

こうして、奥州の覇者・独眼竜・伊達政宗は、ドラマティックでスリリングな69年の人生に幕を下ろしたのでした。   

人物像

伊達政宗は江戸時代になって平和が訪れると、領土のために本来の多趣味な性質を生かしていろんなことに取り組みました。
 
1つ1つのエピソードがかなり濃くておもしろいので、それぞれまた改めてくわしくお伝えしたいと思います。 
個人的には伊達家と細川家の代々の関係が、すごく興味深いです。細川忠興も相当ヤバイ人なのですが、政宗とは変人つながりで結構仲がよかったようです。(お互いに変なヤツと思ってたみたいですけど) 
また、時代が下って、18世紀に起った細川家御家断絶の危機を当時の伊達藩主が機転で救ったエピソードや、幕末の伊達家のピンチに今度は細川家が一役買ったことなど、長きにわたっていろいろつながっていて面白いのです。 
また、名軍師・片倉小十郎との逸話も面白いです。

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