人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 武田信玄 | 人は食べた物で創られる

人は聞いた言葉で心が創られる戦国武将編 武田信玄

戦国武将編
  1. 武田信玄 名言
      1. 人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
      2. 大将たる者は、 家臣に慈悲の心をもって接することが、 最も重要である。
      3. 一生懸命だと知恵がでる、中途半端だと愚痴がでる、いい加減だと言訳がでる。
      4. 三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。
      5. 渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。
      6. 武将が陥りやすい三大失観。一、分別あるものを悪人と見ること。一、遠慮あるものを臆病と見ること。一、軽躁なるものを勇剛と見ること。
      7. 勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。
      8. 信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。
      9. 戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。
      10. 勝負の事、10分を6分、7分の勝は10分の勝なり。子細は8分の勝はあやふし。9分、10分の勝は、味方大負の下地なり。
      11. 大将が善であれば、その部下も善である。上下ともに正しければ、戦いに勝ち、世の中に名前を知られるようになる。しかし、その器にもなく名声を好むことは、恥の根本である。
      12. 負けるはずのない戦いに負け、亡ぶはずのない家が滅ぶのを、人はみな天命と言う。自分はそれを天命とは思わない。すべてやり方が良くなかったためだ。
      13. 人を使うのではなく、その人の技を使うのだ。
      14. 五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠り心が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと、敵を侮り驕りの気持ちが生まれる。
      15. やればできる!やらなければできないことをできないと諦める人は残念だ!
  2. 人生
    1. 出生から甲斐守護継承まで
    2. 信濃国を平定
    3. 川中島の戦い
    4. 西上作戦
    5. 三方ヶ原の戦い
    6. 信玄の最期と遺言
    7. 関連

武田信玄 名言

人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

どれだけ城を強固にしても、兵の心が離れてしまえば戦には勝てない。熱い情を持って接すれば、強固な城以上に人は国を守ってくれるし、仇を感じるような振る舞いをすれば、いざという時自分を護るどころか裏切られ窮地にたたされる。人間社会に置いて最後にものを言うのは、人の結びつきである。

大将たる者は、 家臣に慈悲の心をもって接することが、 最も重要である。

大将たる者は、家臣に慈悲の心をもって接することが、最も重要である 。そのままの言葉。

一生懸命だと知恵がでる、中途半端だと愚痴がでる、いい加減だと言訳がでる。

そのままです。愚痴が出るうちは、まだまだ努力出来ると言う事ですね。

三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である。

本当のことを言う正直な人間は言葉がぶれず一貫して変わらぬもので人や状況で言う事が変わるものは信用が置けない人間である。

渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。

渋柿には渋柿の良さがある。渋柿を無理に甘くするなどは小賢しく愚かである。甘柿も渋柿もその長所を生かすことが大切だ。 人の長所を生かしてつかえと言う事だと思います。

武将が陥りやすい三大失観。一、分別あるものを悪人と見ること。一、遠慮あるものを臆病と見ること。一、軽躁なるものを勇剛と見ること。

分別あるものを悪人とみること
リーダーの周囲はゴマすりをする人ばかりが集まりがちで、その褒め言葉をたくさん聞く環境にあります。自分に意見を言ってくれる人が極端に少なくなり、その代わりにリーダーの意見に簡単に同意する人が増えてきます。
こうなると、自分に情報が入ってこなくなり、正しい判断ができなくなります。リーダーの周りには必要な時に異論を唱えてくれる本当に正直な人間が必要で、耳に痛い忠言をしてくれる人を受け入れなさいと信玄は説いています。
耳が痛い忠言を受け入れるかどうかはリーダーの気持ち次第ですが、正直な意見を言ってくれる人は大切にしたいものです。正直な意見を言う人を嫌うようでは、リーダーに苦言を呈する人がいなくなります。リーダーの資質は、忠言を受け入れるだけの人間的な大きさできまります。
遠慮あるものを臆病とみること
最近は自己主張していなければ損をする時代と言われています。自己主張をしない人が目立たない、認められにくい世の中です。
失われつつある謹みや謙虚さですが、なかにはいぶし銀のような深みがある人もいます。謙虚な人は、人の見ていないところでさまざまな努力を重ね続けています。そしてその努力を他人に見せびらかすことはあまりしません。謙虚な人は、つねに努力して自分を高めようとする意欲があります。
一方で自分から前に出てこないので、謙虚な人は会議などで自分の意見を通そうなどという気はなく相手に協力します。そのため仕事の技術やアイデアの質は高めですが、リーダーの理解を得られることは難しくなります。
知識や能力がある人ほど、物事が良く見えるので無責任な安請け合いはしません。リーダーは謙虚な人が慎重になっている行動の背景や理由をしっかり見極めることが大切です。遠慮や謙遜をする人を自信がないのだとか臆病なのではないかと思ってしまうと、リーダーにとって大きな損失です。
軽躁なるものを勇豪とみること
目立ちたがりで自己主張が強い。話し上手でユーモアがあり人を惹きつける。自惚れが強く、よく自慢話をする。自己顕示性が強い性格の人をリーダーシップや実行力があると勘違いしてしまうことです。口先だけで相手に期待を持たせ普段は頼もしく思える人でも、いざという時に役に立たない人もいます。
リーダーも一人の人間ですから、すべての能力を備えているわけではありません。しかしリーダーが犯したミスは大きな影響を与えます。その仕事に相応しい人たちを見つけ出して、その人たちに任せることが重要です。

勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。

勝ちすぎると必ず驕りがでる。驕りからくる心の油断は身を滅ばすものである。確かに多少の危機感があるほうが驕りからくる心の油断は起こしずらいと感じます。

信頼してこそ人は尽くしてくれるものだ。

信頼のおけない人の為に心から尽くすことなど出来ないものだ。日々信頼関係が大切にすること。

戦いは四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けないようにすることだ。ただし二十歳前後は、自分より小身の敵に対して、負けなければよい。勝ちすぎてはならない。将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。

将来を第一に考えて、気長に対処することが肝要である。

勝負の事、10分を6分、7分の勝は10分の勝なり。子細は8分の勝はあやふし。9分、10分の勝は、味方大負の下地なり。

大将が善であれば、その部下も善である。上下ともに正しければ、戦いに勝ち、世の中に名前を知られるようになる。しかし、その器にもなく名声を好むことは、恥の根本である。

負けるはずのない戦いに負け、亡ぶはずのない家が滅ぶのを、人はみな天命と言う。自分はそれを天命とは思わない。すべてやり方が良くなかったためだ。

人を使うのではなく、その人の技を使うのだ。

五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠り心が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと、敵を侮り驕りの気持ちが生まれる。

やればできる!やらなければできないことをできないと諦める人は残念だ!

人生

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。

甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した

出生から甲斐守護継承まで


大永元年11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。

甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曾祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を排斥[するなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。

積翠寺にある、信玄公産湯の井戸
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという。

幼名は太郎。傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。

大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。

大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。

信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。

天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去していた。

天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名を「晴信」と改める。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。

信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。

晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。

信濃国を平定

戦国時代の甲信とその周辺拡大
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う。

天文11年(1542年)6月に晴信は諏訪氏庶流である伊奈の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543年)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した。父・信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。

今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[注釈 7]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時には既にに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した。こうして、中信地方は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

だが翌天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(上杉謙信)の下へ逃れた。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。

川中島の戦い

第四次川中島の戦い
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。この時は、景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。

晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。この年、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して南信地方を安定化させた。しかし、その一方で、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ東濃地方の岩村・苗木の両遠山氏も信玄への臣従してきたたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった。

天文24年には川中島において再び長尾景虎と対陣している。

弘治3年(1557年)には室町幕府将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。

『甲斐国志』に拠れば、永禄2年(1559年)2月に晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[13]。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。
信玄は北信侵攻を続けていたものの、謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。

第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化し始める。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。

外交方針の転換と今川・北条との戦い
川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始したものの、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。

永禄3年(1560年)5月には桶狭間の戦いにおいて、駿河の今川義元が尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曾・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている[17]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。

永禄11年(1568年)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻[注釈 14]を開始し、薩垂山で今川軍を破り(薩埵峠の戦い)、今川館を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川方救援のため出兵して甲相同盟は解消された。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し、侵攻から離脱した。

この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城を一時包囲。撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。

また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。

遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復
永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。

元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

西上作戦


尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。

元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している。

元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。

信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った。

これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。

三方ヶ原の戦い


劣勢に追い込まれた家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。

しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。

信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。

信玄の最期と遺言


信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。

4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。

天正3年(1575年)3月6日には山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗しているが、『甲陽軍鑑』品51によれば、この直前にあたる同年4月12日には恵林寺において勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行った」としている。天正4年(1576年)4月16日には勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。

江戸時代には寛文12年(1672年)に恵林寺において百回忌の法要が行われている。宝永2年(1705年)4月10日には恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による百三十三回忌の法要が行われている。柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。

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