尊王攘夷運動の種をまいた松下村塾長 吉田松陰

幕末編

吉田松陰という人は非常に筆マメな人物で、毎日の行動などを事細かに記録したり、手紙や書・言葉を多く残しており、30年という短い生涯の中に松陰の名言や格言が多く後世に伝わっています。

吉田松陰は、長州藩の思想家で教育者です。 死後大きく開花する尊王攘夷運動の種をまいた人物で、自邸内に松下村塾を開いて子弟の教育に当たりました。

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吉田松陰の名言

諸君、狂いたまえ。

【意味】常識という概念に惑わされず、現状に満足することなく、人に自分がどう思われるかよりも志を強く持ち自分の信じる道を進みなさい。

夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。

【意味】夢を持たない人間はそもそも成功などできない。成功したければ夢を持ちなさい。

人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。

意味】人は皆、1つ2つは素晴らしい才能を持って生まれてくるものであり、その才能は皆平等に持ち合わせている。

宜しく先ず一事より一日より始むべし。

【意味】まずは一つのことを思いついたその日から始めるべきである。

勝敗は常なり、少挫折を以て其の志を変ずべからず

【意味】勝つことも負けることも世の中の常である。少しの挫折ぐらいで志を変えるべきではない。

君子は交わり経ちて悪声を出さず

【意味】徳の高い人間ほど、たとえどんな理由で絶交したとしても悪口は決して言わないものである。

士たるものの貴ぶところは徳であって才ではなく行動であって学識ではない。

【意味】目指すものは、人しての徳であって頭脳ではなく、行動を示すものであって学識をふりかざすものではない。

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。

【意味】死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良い。生きていることで大業の見込みがあるならば、生きて成しとげれば良い。

余寧ろ人を信じるに失するとも、誓って人を疑うに失することなからんことを欲す。

【意味】私は、人を信じて失敗することがあっても、決して人を疑って失敗することはないようにしたい。

一誠、兆人を感ぜしむ。

【意味】命をかけて貫くまごころは、限りなく多くの人々を感動させる。

獄中にいながら郷里の親族に宛てたもの。そしてもう1つは弟子達に宛てた手紙です。最後の辞世の句に関しては、松陰が書き残したのではなく牢獄で大声で吟じたので、中にいた者が書き写して世に残されています。

親思うこころにまさる親ご ころけふの音づれ何ときく らん

【意味】子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いものである。自分の死の知らせををどんな思いで聞くのだろう。

安政6年 十月二十六日(1859年11月20日)、「永訣の書」(えいけつのしょ)と呼ばれる、肉親にあてて書かれた別れの手紙の文頭に記されている句です。この手紙には遺書のような内容が綴られており、家族に宛てた最後の言葉として残されています。家族、特に両親に対しての愛情が深かった松陰らしい句です。最後の時がくるまで両親の事を思う子の姿が思い浮かんでなんとも切ない句であります。

身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂

【意味】私の体は江戸の地で朽ち果てても、私の大和魂という信念だけはこの世に置いておきたいものだ。

門弟たちへ渾身5000字に及ぶ遺書留魂録」(りゅうこんろく)に残されている句です。松下村塾の塾生たちに向けて書かれたもので、一般的には吉田松陰の辞世の句として知られています。

この長文の書の中には以下のような言葉も書かれています。

「討たれたる吾れをあはれとみん人は君を崇めて攘仏へ 愚かなる吾れをも友ととめづる人はわがとも友とめでよ人々 七たびも生きかへりつつ夷をぞ 攘はんこころ吾忘れめや」

(処刑される私を哀れと思う人は天皇を崇めて外国を追い払ってほしい。愚かな私を友と憂いてくれる人は諸君で結束してほしい。7回生き返ろうとも外国を追い払うという心を私は決して忘れない)

この松陰のすさまじい信念は弟子達を突き動かし新しい世への原動力になっていきました。

吾今国のために死す。 死して君親にそむかず。 悠々天地の事鑑照明神にあり。

【意味】私は今、国のために死ぬ。この死は決して主君や親に対し背くことでは何一つない。遥かに広がる天地の間に営まれる悠々と流れる事の中で、私の行ってきたことはすべて国の為に行ってきたことである。そのことは霊験あらたかな神々が必ず見て下さっている。

松陰は評定所のくぐり戸を出るとき、漢詩を朗々と吟じたといいます。まさにこの漢詩が最後になるので、辞世の句と言えるでしょう。

この後、いったん伝馬町の獄舎に帰り再度大声で辞世の歌を吟じ、同囚の人たちに別れの挨拶をして正午に刑場へと移りました。

吉田松陰の人生

吉田松陰は、天保元年(1830年)萩藩士、杉百合之助(ゆりのすけ)の次男として萩藩領内の萩城東郊に位置する松本村(現山口県萩市椿東の一部)で生まれました。名は矩方(のりかた)、幼名は虎之助(とらのすけ)。杉家の家禄は26石でした。

文政から天保期に至る幕藩体制の財政的破綻で、長州萩藩の財政難も例外ではなくこの当時も家臣への禄の支給も半減していました。杉家の実質の家禄は13石ということです。

一族助け合いの精神で、一時は先代の妻の妹まで引き取り11人の大所帯でした。杉家の人々は心を寄せ合い、半士半農、自給自足をして貧しく厳しい生活に耐えていたのです。

若くして一家を担う

学問にも熱心な家でありました。のちの松陰の生い立ちを見れば、その家風に影響を受けていたことがわかります。百合之助の次弟で、吉田家に養子に入っていた萩藩の山鹿流兵学師範・叔父吉田大助が、子ができないため、兄に乞うて松陰5歳の時に吉田家に養子に入ります。

しかし養父・大助は、その翌年病で亡くなります。このため松陰は、わずか6歳にして吉田家を継ぐことになります。この後、養父・大助の一字をとって改名大次郎と名乗ります。吉田家は代々毛利家に山鹿流兵学師範として仕え、家禄五十七石六斗、大番組をつとめる家柄でありましたから、その家職の責任は、6歳の松陰の双肩にずしりとのしかかることになります。ここから松陰の人の師となり勉学に邁進する運命が決定づけられることになります。

学問の才能を発揮

兵学師範となるために、百合之助の末弟の玉木文之進(ぶんのしん)による厳しい教育がはじまります。

10歳の時から藩校明倫館に出仕し、11歳の時、藩主毛利敬親(たかちか)の前で「親試」(しんし)を行なうことになりました。この親試というのは、学業成績のすぐれた者が選ばれて御前講義の形で藩主に進講する制度です。松陰は、藩主の前で「武教全書」の講義を行い、藩主を感動させる程の秀才ぶりを披露しました。この時より藩主・敬親は、松陰の人物才能を認め、以後、松陰に対する親試は6回に及んでいいます。

その後、19歳で独立師範(兵学教授)となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授しました。

旅を送る人生

20歳の時、萩藩領の日本海沿岸を防備状況視察のため旅にでます。

この視察を皮切りにその後、松陰の人生の大半を旅が占めることになります。南は熊本、北は津軽まで歩き、その総距離は1万3000キロに及びました。21歳のとき兵学研究のため藩主に従って遊学生として江戸へ出て、佐久間象山(しょうざん)らについて広く学びました。この時、積極的に複数の師にも学び 、その回数は一ヵ月に三十回にも及びました。この江戸遊学での象山との出会いは、のちの松陰の人生の大きな転機となります

約束を守るための脱藩

22歳の時、遊学の過程で知り合った熊本藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)などと東北視察を計画しました。この旅は松陰がのちに自ら用猛第一回と呼ぶところの脱藩という結果を招くことになります。

同行するもう一人の友人の仇討の為、義に厚い松陰と宮部は、赤穂義士討ち入りの十二月十五日を出発の日と決めます。当時の人々にとって“義”として語り伝えられる赤穂浪士の行動は、極めて大きな意味があります。余談ながら、高杉晋作(しんさく)が、雪の夜の功山寺に決死の挙兵をしたのも、やはり十二月十五日でありました。この出発の日は選ばれた“日”であったのです。

しかし、藩は旅行許可を出していたのですが、藩邸の事務処理のうえで過所手形(関所通過証)の発行が間にあわなくなり、出発の日に手形を用意することが叶わなくなりました。これがない出発は脱藩となりますが、松陰は藩の規則より義を重んじ、約束を違えるのは萩藩全体の恥と考え、手形を持たないままに出発し確信犯的に脱藩して東北視察の旅に出るのです。その後、東北から江戸に戻り萩藩邸に自首、国許に送り返され藩士の身分を剥奪されてしまいます。

しかし、人材を惜しむ藩では、藩独自の制度である「育」(はぐくみ)という制度を使い、父・百合之助の「育」として、松陰を繋ぎとめました。その後、藩主から遊学の許可も出され再び江戸に向うことになります。

この頃から松陰という号を使い始めます。

ペリーの黒船来航

再び踏んだ江戸の地で松陰は歴史的な瞬間に遭遇します。世に言うペリーの黒船来航です。

嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目のあたりにし衝撃を受けた松陰は、佐久間象山(しょうざん)の励ましの手紙もあり、外国への密航を図ります。嘉永7年(1854年)3月27日夜、伊豆下田沖に停泊していた旗艦ポーハタン号に運よく近づき、乗船できたのです。松陰と弟子の金子重輔(かねこしげのすけ)はアメリカ渡航を求めました。しかし、拒否され追い返されてしまいます。

艦艇に近づいた小船が流され、その船の中に佐久間象山(しょうざん)の手紙が残されていた事から、捜索しますが見つからず、潔く松陰は自首することを選びます。二人は江戸に連行され国許幽閉が申し渡されました。 萩に帰った松陰は野山獄に投獄され、重輔(しげのすけ)は岩倉獄へ投獄されます。重輔(しげのすけ)は伝馬町の牢での劣悪な環境が原因だったのか、病(超結核と言われている)にかかり、岩倉獄でも治癒することなくまもなく病死、松陰はこれを深く哀しみました。

松陰は自分の食事から汁と菜を抜き金を蓄えて、それを重輔(しげのすけ)の遺族に贈っています。

獄囚との交流

その後、新参者の松陰の人柄に興味を抱く、獄囚11人と交流が始まりました。

松陰はとにかく誠実に対話し交流をすることに努めました。長く外の世界から隔離されている者にとって、外の世界に惹かれ知りたがるのは当然の事です。次第に見識・経験豊かであろう青年に質問が寄せられるようになります。松陰はこれに誠実に答え、また積極的に自分の遊学の経験や、海外事情などを話していきました。

こうして囚人たちとの問答は外交問題、国防問題、民政問題など各分野に及ぶ高度なものとなっていきました。そして信頼関係もでき、やがて獄中の希望者を集めて「孟子」の講義も始める事になったのです。

囚人達は互いに教え、学び合い、松陰を軸として獄は学びの場となっていきました。

松下村塾

安政2年(1855年)12月、松陰は出獄を言い渡され、自宅幽囚となります。

野山獄で行っていた「孟子」の講義が途中で終わってしまったことを知っていた家族が、松陰を思いやる形で「孟子」の講義を受けるため幽囚の間に集うようになります。そのうち、家族だけでなく松陰を慕う者や、国禁を犯した松陰に興味のある近隣の若者が来るようになりました。そして参加する人数が増えてきたため、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎としました。

塾の名は叔父が開塾した名を引き継ぐこととし、松陰独自の松下村塾がここに誕生します。

松下村塾の起源

松下村塾は、もともと天保13年(1842年)吉田松陰の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)が開塾した私塾として始まりました。場所は、長州藩領内、萩の「松本村」の自宅です。

その後、松陰の養子先養母の弟である外淑・久保五郎左衛門(くぼ ごろうざえもん)が松下村塾の名前を引き継ぎいで私塾を開き、そして松陰に引き継がれていくことになります。

松陰の死後、松下村塾の活動は中断しましたが、弟子や兄が引き継ぎ、明治25年まで存続しました。現在、松陰神社境内に修理修復され当時のままの姿で現存しています。

松下村塾の思想

松陰は 読破した多くの書籍や恩師や出会いから得たものと、山鹿流を折衷して独自の思想を構築していきます。国禁を破り海外渡航を企てた松陰の考えは「規諫(きかん)の策」であり、実際に見聞してそれを藩主に直接訴え諫めるものであり、老中暗殺未遂の時も、松陰の考えは「草莽崛起(そうもうくっき)」でありました。

これは松陰と志を同じくする多くの者が広く立ち上がり、幕府を包囲攻撃するという考えです。真心をもって事にあたれば、おのずから志を継ぐ者が現れ、道は開けるものだという松陰の信念です。

多数の人材を輩出

松陰は「学は人たる所以を学ぶなり」(人が人たる理由を学ぶこと。学びは知識を得るためでもなく、己を磨くためであり、己の役に立つためでも、役目を果たすためでもなく、 世の中の為に己がすべきことを知るため)という言葉を残しているように、志を持ち世を良いものとしょうとする気持ちがあるものは、身分や階級にとらわれず塾生として受け入れました。わずかな間でしたが、久坂玄瑞(げんずい)・高杉晋作(しんさく)・伊藤博文(ひろふみ)・山縣有朋(やまがたありとも)・山田顕義(あきよし)・品川弥二郎(やじろう)など、その後の明治維新の礎や原動力となり明治新政府において活躍する多くの人材を排出することになります。

吉田松陰の最後

安政5年(1858年)大老井伊直弼(いいなおすけ)は幕府に反対する者達を大弾圧しました。いわゆる安政の大獄です。松陰の最後を語るのに安政の大獄は外すことができない大事件です。なぜなら安政の大獄がきっかけとなり松陰は処刑されるからです。

志士活動を大掛かりに行い、この弾圧で捕まっていた梅田雲浜(うめだうんぴん)が拷問をしても自白しないことから、雲浜(うんぴん)が以前に長州へ行き松陰と面識があり松陰と何か話したのではないかと疑いを持たれます。御所に落ちていた手紙に人々を扇動するような内容が書かれ、その筆跡が松陰に似ていると雲浜が話していたなどから、松陰から何かしら聞きだしたい思いがあり幕府は江戸へ召喚するように命を出します。

しかし、松陰は関係がないことがわかり無事に放免される予定でした。

老中暗殺計画を自白

ところが、人を信じれば道が開けると思ったのか、自分の考えを語るに相応しいと思ったのか、松陰は老中暗殺計画を自ら打ち明けてしまったのです。当時、松陰は長州藩内では有名でしたが、幕府が神経を尖らせるほどの人物ではなかったので、幕閣の大半は素直に罪を勝手に自供しているのだから「遠島」にするのが妥当だと考えていました。それなのに、老中暗殺は政治犯として「死罪」に妥当すると、松陰は自分で主張したのです。
このことが井伊直弼の癇に障ったのか、このまま遠島で終わらせると幕府の面子も潰れることから松陰を処刑することになったようです。まさしく「口は災いの元」とはこの事です。

安政6年(1859年)、松陰は江戸伝馬町の獄内で刑死しました。松陰は刑の直前に「親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」(子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深い)という歌を読んでいます。

最後まで、自分の死の知らせを親が聞くには忍びないと父母を思った松陰でした。享年数え年で30歳。ここに熱く短い生涯を終えたのです。

テロリスト

ネット上でもここ数年「吉田松陰はテロリスト」「長州はテロリスト集団」という言葉が見受けられます。

これは原田伊織氏の『明治維新という過ち—日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』や、一坂太郎氏の『吉田松陰—久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』 や、武田 鏡村氏の『薩長史観の正体』などの 本の影響が大きいです。この本の内容としては、官軍明治新政府は善、という官軍史観への異議申し立てが前提である明治維新を再検討するもので、この中に書かれている事が世間やネット上などで拡散した結果「吉田松陰テロリスト」の言葉が一人歩きを始めのです。実際に尊王攘夷運動の元なら、殺人も放火も「天誅」として全て尊い行いになっていたのが幕末です。松陰も国禁を犯した密航未遂までは佐久間象山(しょうざん)の教えを支持していましたが、野山獄で投獄中に水戸学の書物を読み、本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』も読破して国家神道の原理主義者になっていったのです。

松陰は水戸学と家学を折衷させて独自の思想を確立していきました。「尊王攘夷」の四文字を唱えれば「誠」のためにどんな卑劣な事をしてもかまわない、自分自身が滅びても魂が残ればよいと自爆テロをするテロリストと同じ思考になっていったのです。口を開けば「暗殺」と言って藩もほとほと手を焼いていたのも史実や資料から分かります。こういったことからも吉田松陰が後の世で神格化されただけであり、幕末当時は危険なテロリスト集団の首謀者だったと言われる所以です。

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