徳川家家臣。徳川四天王の一人。本多忠勝の名言です。
本多平八郎忠勝は、その武勇から『家康に過ぎたるもの二つあり。唐の頭に本多平八』と謳われています。戦場で一度も傷を負わなかったことでも有名で、忠勝は勇猛なだけではなく知略も備えた名将でもあり、関ヶ原の戦いではその知略をもって西軍武将の切り崩しを行っています。
- 松平氏の譜代の家に生まれる
- 桶狭間の戦いで初陣を迎える
- 鳥屋根城で初めて首を取る
- 三河の一向一揆において、家康への忠誠を貫く
- 旗本先手隊の武将となる
- 姉川の戦いで一騎討ちを行い、勝機を作る
- 忠勝と榊原康政
- 偵察中に武田軍と接触する
- 一言坂の戦い
- 家康に過ぎたるもの
- 武田軍との戦いで活躍する
- 武田軍の壊滅を惜しむ
- 蜻蛉切
- 小牧・長久手の戦いの救援に駆けつける
- 秀吉の前に一騎で身をさらす
- 家康の元で大名になる
- 真田信幸の舅になる
- 関ヶ原の戦いで最後の活躍を見せる
- 昌幸と信繁の助命嘆願を行う
- 後に真田氏も譜代同然の立場になる
- 伊勢・桑名に移封される
- 病にかかり、中枢から遠ざかる
- 戦場では無傷なれど、細工の最中にケガをする
- その死
- 生涯を通じて家康に忠義を尽くし続けた
- 関連
名言
楯は自分の力に合うものが一番
本多忠勝の愛槍として知られる「蜻蛉切(とんぼきり)」に関連している名言であり、自分の戦場での覚悟を込めた名言。
本多忠勝の愛槍「蜻蛉切り」は現代に伝わる資料によれば二丈余(約6m)あったものを、晩年に体力の衰えが出てきた忠勝が三尺余(約90㎝)ほど短く詰めたとされており、このとき言った名言がこの「槍は自分の力に合うものが一番」です。
一見するとごくごく当たり前のことを言っているようにも感じますが、他の人が持つ槍よりも1メートル近く短くなった槍を使うならそれだけ人より前に出る必要があり、相手が攻撃できる距離よりも前に出る必要もあるのです。
それを彼は体力が衰えてもやるといっているわけであり、この名言は「自分は前線で槍で戦う」意思表明でもあったのです。
鉄砲が当たり前に使われるような時代になり、本多忠勝も高い身分になり前線に出なくても良いのに敢えて「自分の価値は槍働き」と定め、「自分の力に合うものが一番」と語り槍を短くした本多忠勝のこの名言は、彼が自信と初志貫徹の志を持った人物であることを教えてくれます。
侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君を枕と並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という。
この名言は本多忠勝が臨終に際して残した遺書の一節であり、武士にとって最も大事なのは忠節を守ることだと語った名言。
本多忠勝はその戦場での強さや指揮官としての能力の高さが有名ですが、本人からしたらそれらが自分の1番の長所だとは思っていなかったようで自分の実力に自信はあってもそれを人に誇ることはしなかったとされています。
戦国時代最後の大合戦である関ヶ原の戦い終了後、武勇を褒め称えられた時の彼が「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と淡々と答えた逸話からもそうした「武」に対しての執着は感じません。
では何故戦場での強さや指揮官としての能力の高さを誇らなかったのかと言うと、それは本多忠勝が戦の強さや有用さがそこまで武士にとっての重要なことではなく、忠義と固い信念こそが重要だと思っていたからでしょう。
だからこそ彼はこの名言「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君を枕と並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」を残し、武士とはこうあるべきなのだと語ったのでしょう。
その為この名言は本多忠勝が忠義と信念の人であったことを教えてくれる名言なのです。
わが本多の家人は志からではなく、見た目の形から武士の正道にはいるべし。
この名言は簡単に言えば「まずは形から入るべきだ」と語った名言であり、ちょっと本多忠勝の意外な一面を見せる名言。
戦場で強く、部隊の指揮を取っても有能、その人格も正に武士らしく、織田信長は「花も実も兼ね備えた武将である」と紹介し、豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称された本多忠勝ですが、結構不器用であり訓練などでは意外に思われることも多かったとされています。
しかしそんな本多忠勝は自分の不器用さを自覚しており、自分が決して理論の人ではないことを理解していたのか、自分が最も大事にしていた「武士とは何か?」と言うことでさえも「まずは形から入るべきだと」とこの名言で語っています。
これはおそらく彼が人の心をどうにかするのを苦手にしていたからこそ至った結論なのでしょう。
本多忠勝は戦場での指揮能力も高く、配下の将達からも「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えたと言いますから、全く人心をつかめない人物であったわけではないのでしょう。
しかし本多忠勝は家康や秀吉天下人を初めとする知将や謀将とされる人物とも関わりがあり、自分では志を人に教えることは出来ないと思ったのでしょう。
贅沢を言えば心こそ正しくあって欲しいものですが、実際人の心を変えるのは簡単なことではなく、場合によっては形から入るのも必要なことです。
自分に出来ないことを自覚し、自分にとっては大事なことに妥協してでも何とかしようとした柔軟な思考を本多忠勝は持っていたことをこの名言は教えてくれるのです。
思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。思慮のある人の功名は、士卒を下知して大きな功名をなしえる。だが、思慮のない人は鎗一本の功名であって大きな事は出来ない。
この名言は本多忠勝が賢さの大事さを語った名言であり、頭の良い人を高く評価していたことを教えてくれる名言。
強い武将と聞くとちょっと乱暴なイメージや、所謂「脳筋」なイメージをする人も多いかと思います。
実際に「戦場では無類の強さを誇るが、統治を任せるのには不安」だとか「個人の武勇に優れてはいるが視野が狭く、兵は預けられない」と言った評価をされた人物も古今東西少なくないです。
しかし本多忠勝はそうしたタイプではなく、頭も切れるタイプであり、理解力のある人、考えて行動できる人を高く評価し、この名言「思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。 思慮のある人の功名は、士卒を下知して大きな功名をなしえる。だが、思慮のない人は鎗一本の功名であって大きな事は出来ない」を残しています。
本人はどちらかと言うと前線で戦ったりするのを好んだと言いますが、指揮能力も高かったことが色々な人からの褒め言葉から分かりますし、実は藩主としても中々の辣腕を振るっていたともされており、自分も頭の回転が速かったのでしょう。
頭の良い人は細かく説明しなくても良いから同じぐらい頭の良い人を好むものですし、武勇だけの人物でないからこそ、本多忠勝は頭の良さを高く評価したとも言えます。
この名言はそんな本多忠勝の知的な面を教えてくれる名言なのです。
辞世の句の紹介
死にともな鳴呼死にともな死にともな深きご恩の君を思えば。
この名言は本多忠勝の辞世の句であり、彼が恩を返すことが出来なくなるから死ぬのが無念だと語った名言。
ちなみに「死にともな」は死にたくないと言う意味です。
現代に生きる私たちには武士は潔さを求めるようなイメージがあるかと思います。
しかし実際に戦国時代に生きて名を残した武将たちの中ではむしろ、「維持でも生きる!」なタイプの人が多く、そうした死を覚悟する強さとは一見相反するようですが、生きる意思の強さも武士の評価を上げるものでした。
ましてや本多忠勝は死んだら恩に報いることが出来なくなるから死にたくないと言ったのです。
現代風に例えるなら、死ぬギリギリまで仕事場で働いて病院に担ぎ込まれた後、「明日出社できなくなるから死にたくない」と言っているようなもので、こんな社員がいたらブラック企業の社長でも引くことでしょう。
確かに死ぬことを恐れたと言えばその通りなのでしょうが、死ぬよりも生きて役に立つことを望んだ彼のそんな姿勢や志を込めたこの名言を聞いたとしたら誰も臆病だとは思わないでしょう。
この名言はそんな戦場で死を恐れずに戦い続けた本多忠勝が、役に立てなくなるからこそ死にたくないと言う筋金入りの忠義を持っていたことを教えてくれる名言なのです。
本多忠勝を称賛した言葉
花実兼備の勇士
家康には過ぎたるもの二つあり、唐のかしらに本多平八
東には本多忠勝という天下無双の大将がいうように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる。
本多忠勝 「天下無双」と呼ばれた戦国最強の武将の生涯
本多忠勝は幼いころから家康に仕え、生涯を通じて忠義を尽くし、数多くの戦場で活躍した武将です。家康の家臣の中でも特に優れた者を指す「徳川四天王」のひとりに数えられ、天下統一の達成に大いに貢献しています。
また、織田信長や豊臣秀吉といった時の権力者たちからもその能力を賞賛されており、戦国時代を代表する勇将のひとりであったと言えます。この文章では、そんな忠勝の生涯について調べてみました。
松平氏の譜代の家に生まれる
忠勝は1548年に、松平氏に古くから仕える本多氏の一族に誕生しました。
父・本多忠高は松平氏が敵対していた尾張の織田信秀(信長の父)との戦いで活躍した武将です。しかし1549年に今川義元の腹心・太原雪斎が織田方の安祥城を攻める戦いに参加した際に、矢に射たれて戦死してしまいます。
これは忠勝がまだ2才の時のことで、このために忠勝は叔父の忠真(ただざね)によって養育されることになりました。
桶狭間の戦いで初陣を迎える
忠勝は幼少の頃から徳川家康(当時は松平元康)に仕えており、初めは小姓としてその身辺で働いていました。そして1560年の「桶狭間の戦い」で初陣を迎え、家康が大将を務めた鷲津砦の攻略戦に参加します。
この時に忠勝は、危うく織田方の武将・山崎多十郎に討ち取られそうになりましたが、側にいた忠真が槍を敵に投げつけ、忠勝の窮地を救っています。
忠勝は後に無双の大将として知られるようになりますが、この頃にはまだ叔父の助けを必要とする状態であったようです。ちなみに忠真もまた、「槍の名手」と呼ばれるほどの優れた武人でした。
鳥屋根城で初めて首を取る
翌1561年になると、家康は桶狭間の戦いに敗れて衰退し始めた今川氏から独立し、三河で割拠するようになります。しかしこの時点では今川氏に所属し続ける三河の豪族も多く、家康はそれらの敵と戦っていくことになりました。
忠勝はこの三河統一戦に参加し、そこで武将としての経験を積み上げていきました。
やがて家康が三河の鳥屋根城を攻めた際、忠勝は忠真の隊に所属して参戦しています。
そして忠真が戦場で敵を槍で刺し貫いた上で、忠勝に「首を取って手柄にするがいい」と告げたのですが、忠勝はこれに反発します。「人の力を借りて武功を立てるようなことはしない」と言い放ち、敵陣に駆け入って自ら首を取って戻ってきました。
この様子を見て、周囲の者たちは忠勝はただものではないと気がつき、高く評価するようになっていきます。家康が独立を果たす過程で、忠勝も侍としての一人立ちを果たし、以後は多くの武功を立てて家康の躍進に貢献していくことになります。
三河の一向一揆において、家康への忠誠を貫く
その後、家康の三河統一は順調に進行して行ったのですが、やがて松平氏を2つに割る大きな騒動が発生します。それは三河の一向一揆(浄土真宗の信徒たちによる反乱)でした。
三河はもともと浄土真宗の信徒が多い土地柄で、家康の家臣にも多く含まれています。
彼らが三河の浄土真宗の寺院の扇動によって、家康へ大規模な反乱を起こしたのが、この騒動の始まりでした。本多正信を初め、本多一族の多くも反乱に与しており、この一向一揆は、家康の生涯の中でも最大級の危機のひとつとして数えられています。
忠勝もまた浄土真宗の信徒の一人だったのですが、家康への忠誠を貫くため、浄土宗に改宗し、反乱を起こした者たちと戦って武功を上げました。
この主君への忠誠を尽くした働きにより、忠勝は家康から厚い信任を受けることになります。
旗本先手隊の武将となる
家康は一向一揆を鎮め、今川側の勢力を駆逐して三河の統一に成功すると、新たに「旗本先手隊」という部隊を編成します。旗本先手隊は家康直属の精鋭部隊であり、特に選りすぐった若手の武将たちを起用することで、家康自身の軍事力を強化するための組織でした。
忠勝はこの時19才でしたが、抜擢を受けて54騎を率いる武将に任命されています。
これ以後、忠勝は家康の居城の城下に住むようになり、側近の将として活躍するようになりました。歴代の旗本先手隊に組み入れられた武将には、榊原康政や井伊直政らもおり、いずれも後に家康の重臣として活躍しています。
旗本先手隊に選ばれるのは、言わば徳川氏におけるエリートコースに入ったことを意味していました。なお、この頃に家康は松平から徳川に改姓し、三河守の官職を得て、名実ともに戦国大名としての地位を確立しています。
姉川の戦いで一騎討ちを行い、勝機を作る
1570年になると、近江(滋賀県)で「姉川の戦い」という、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍による決戦が行われました。
この時に忠勝は朝倉軍の豪傑・真柄直隆(まがら なおたか)と一騎討ちを行って勇名をはせ、他国にもその存在が知られるようになっていきました。
この戦いでは忠勝が朝倉軍に向かってただ一騎で突撃をかけ、これを救おうとした徳川軍の動きが勝利をもたらした、と言われています。
朝倉軍に横撃をかければ打ち崩せる、と見抜いた家康が、榊原康政に別働隊を率いさせてこれを実行させた、という話もありますが、そのきっかけを作ったのが忠勝だった、ということなのかもしれません。
忠勝と榊原康政
榊原康政は忠勝と同じく、徳川四天王に数えられる優れた武将です。
忠勝と同じ年齢だったこともあって二人は仲が良く、戦場で武功を競う間柄でもありました。忠勝は個人の戦闘力と中小規模の部隊の指揮能力に優れており、康政は大部隊の指揮を得意としていた、と言われています。
偵察中に武田軍と接触する
1572年になると、甲斐(山梨県)の武田信玄が家康の領地になった遠江(静岡県西部)への侵攻を開始し、兵力に劣る徳川軍は不利な状況に追い込まれていきました。
そして武田軍が遠江の要衝である二俣城を攻撃しようとしていると知り、家康は3千の軍を率いて救援に向かいます。この時に忠勝と内藤信成が先行して偵察を行っていたのですが、予想以上に武田軍の進軍が早く、不意にその先発隊と接触してしまいます。
武田の軍勢は5千ほどで、計画していない接触であったことと、数の不利を受けたために家康は撤退を決断します。しかし精強な武田軍の動きは素早く、すぐに徳川軍に向かって攻撃をしかけて来ました。
一言坂の戦い
この時に忠勝は本隊と内藤信成隊を逃がすために殿(最後尾の守り)を務め、坂の下という不利な地勢に陣を構えることになります。
この戦いは「一言坂(ひとことざか)の戦い」と呼ばれています。
武田軍を率いるのは信玄の重臣・馬場信春で、坂の上から下に向かって忠勝の陣に切り込み、3段に構えた陣のうち、2段までを突き破って来ました。さらに、忠勝隊の背後に小杉左近という信玄の近習が率いる部隊が回り込み、銃撃を浴びせかけて来たため、忠勝隊は壊滅の危機に陥ります。
この時に忠勝は決死の覚悟で、坂を下って小杉左近の部隊に突撃をかけました。
忠勝隊の勢いはすさまじく、これを無理に食い止めようとすれば大きな被害が出ると判断した小杉左近は、道を開けて忠勝の通過を見逃しています。この時に忠勝は馬を止めて小杉左近の名を聞き、感謝の言葉を述べてから去っていきました。
家康に過ぎたるもの
小杉左近は戦いが終わった後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌を作り、これが世に広く知られることになりました。「唐の頭」は中国産の珍しい兜のことで、家康が愛用していた品です。
そして「本多平八」とは忠勝の通称「平八郎」から取られており、家康にはもったいないほど優れた武将である、と敵から賞賛を受けたことになります。主君の撤退のために不利な状況で戦場に踏みとどまり、決死の覚悟で自身の脱出にも成功した忠勝の武勇が讃えられ、武田軍にもその存在が知られるようになりました。
武田軍との戦いで活躍する
その後、忠勝は家康が大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」で左翼に配置され、武田軍の最強部隊である山県昌景隊を後退させるなど、劣勢の中で気を吐く活躍を見せています。
しかし全体の戦況は大敗と言えるもので、徳川軍の武将に多くの死者が出ており、叔父の忠真もこの戦いで亡くなってしまいました。家康にとっては幸いなことに、この戦いの少し後に信玄が病死したため、武田軍は甲斐(山梨県)に撤退しています。
この機を逃さず、徳川軍は三河や遠江で反攻を開始しました。
忠勝はその流れの中で、信玄に奪われていた長篠城の奪還戦や、織田信長が大量の鉄砲と野戦築城によって勝利した「長篠の戦い」でも目立った戦功を上げており、その武名はますます高まっていきました。家康からは「まことに我が家の良将なり」と賞賛されています。
そして1582年の武田征伐の完了後には、信長からも「花も実も兼ね備えた武将である」として、その家臣たちに紹介されています。
武田軍の壊滅を惜しむ
長篠の戦いで強敵であった武田軍が壊滅した後、忠勝は物憂げな様子を見せていました。そのことを不思議がった他の武将から理由をたずねられると、「惜しい武将たちを亡くしてしまった。これ以後は戦で血が騒ぐこともないだろう」と返答しています。
忠勝にとっては、武田軍は手強いものの、それだけ自分の武勇のふるいがいのある、好敵手でもあったのでしょう。
蜻蛉切
忠勝の戦場での活躍ぶりは、「蜻蛉(とんぼ)が出ると、蜘蛛(くも)の子散らすなり」と川柳にも詠まれています。これは忠勝が用いていた蜻蛉切(とんぼきり)という名槍になぞらえたもので、忠勝がこの槍を持って戦場に出ると、たちまち敵が追い散らされていった様子を表しています。
ちなみに、蜻蛉切の異名は、戦場で槍を立てていたところ、その先端にとまったトンボが、何もしていないのに二つに切れてしまった、という逸話に基づいています。
それほどの鋭い切っ先を持った優れた槍であり、忠勝はそれを用いて戦場で多くの武功を立てました。
小牧・長久手の戦いの救援に駆けつける
その後、1582年に織田信長が本能寺の変で横死し、天下人が誰になるのか、その行方は不透明になっていきます。そのような状況下で、家康は三河・遠江・駿河に加えて甲斐や信濃を制し、五ヶ国を支配する大大名の地位を手に入れました。
そして信長の遺臣同士の闘争に勝利した羽柴秀吉と敵対するようになり、やがて両者が対決する「小牧・長久手の戦い」が尾張で勃発しました。この時に忠勝は三河の守備についていたのですが、家康が秀吉の大軍の前に苦戦していることを知り、500の兵を率いて戦場に駆けつけました。
秀吉の前に一騎で身をさらす
秀吉も家康も互いに堅牢な陣地を構築し、尾張の戦場ではしばらくにらみ合いが続きました。この膠着した状況を打破するため、秀吉が三河に向けて別働隊を送り込むと、家康は陣地を出てこの別働隊を急襲し、撃破します。
すると秀吉もまた、家康を討つべく大軍を動かしました。
忠勝はこれに対し、数万の大軍を擁する秀吉の前に、ただ一騎で身をさらし、川で馬に水を飲ませる様子を見せ、秀吉の軍勢を挑発しました。これを銃撃して討ち取るべきだ、と主張した武将もいましたが、信長の家臣だった時代に忠勝と戦場をともにしたことがある秀吉は、忠勝の勇気と忠義を賞賛し、あえてこれを見逃させています。
秀吉はこの時、忠勝に攻めかかると、少しずつ抵抗されて食い止められ、家康から遠ざけられてしまうことも見抜いていました。忠勝はこの後も秀吉の軍勢に追従してその進軍を遅滞させる活動を行い、この影響もあって、秀吉の出動は空振りに終わっています。
こうして目の前で並外れた勇気を示したことから、後に秀吉から「東に本多忠勝という天下無双の大将がいる」と賞賛を受けています。ちなみにこの時に忠勝と並び称されたのが、九州の戦場で活躍していた立花宗茂でした。
家康の元で大名になる
家康と秀吉が和睦して小牧・長久手の戦いが終結すると、交渉の末に家康は秀吉の築いた政権に従うようになりました。そして1590年に関東の北条氏が征伐されると、家康は関東に移封され、250万石の大領の主となります。
この時に家康の重臣たちの領地も大幅に増加され、忠勝は上総国(千葉県北部)の大多喜に10万石の領地を与えられています。
これは12万石となった井伊直政に次ぐ、二番目の領地の広さでした。忠勝が上総に配置されたのは、安房(千葉県南部)を支配する里見氏に備えるためであったと言われています。
ちなみに、榊原康政もこの時に同じ10万石の領地を上野(群馬県)に与えられ、こちらは上杉氏と真田氏に備えています。
真田信幸の舅になる
一方、家康が秀吉の傘下に入ったことで、それまで敵対関係にあった信濃の大名・真田昌幸が与力として徳川氏の指揮を受けることになりました。この際に家康は真田氏との関係改善のため、忠勝の娘・小松姫と、昌幸の嫡男・信幸を結婚させようとしますが、昌幸にはねつけられてしまいます。
家康の家臣でしかない忠勝の娘とでは釣り合わない、というのがその理由でしたが、忠勝からすれば失礼な話ではあります。
これは昌幸が、家康の家臣の娘と自分の長男を結婚させることで、徳川氏から真田氏が格下扱いされることを嫌ったためでした。結局は家康が折れ、小松姫を家康の養女にして、その上で信幸と結婚することになりました。
こうして、忠勝は信幸の舅となり、真田氏と血縁関係を持つことになります。
この措置が、後に真田氏が関ヶ原の戦いにおいて、親子で陣営を分けることにもつながっていきます。
関ヶ原の戦いで最後の活躍を見せる
天下人となった秀吉の死後、1600年になると、家康と石田三成の間で、天下の支配権をめぐる「関ヶ原の戦い」が発生します。この時に忠勝は家康の本軍に属し、井伊直政とともに東軍に所属した大名たちを監督する立場につきました。
本多隊は嫡男の忠政が率い、中山道を進む徳川秀忠隊に所属したため、忠勝自身の率いる兵は数百程度にとどまっています。しかし忠勝はこの兵数でも数万の軍勢がぶつかり合う戦場で活躍し、90もの首級を取る働きを見せています。
この武功を東軍に属した福島正則に賞賛されますが、忠勝は「采配が優れていたのではなく、敵が弱すぎたのだ」と語っています。歴戦の忠勝にとっては、天下分け目の戦いであっても、さほどの難戦ではなかったようです。
関ヶ原では戦場での働きだけでなく、西軍の武将の寝返り工作にも携わり、家康の勝利に大きく貢献しました。
昌幸と信繁の助命嘆願を行う
先にも少し触れたとおり、関ヶ原の戦いでは、真田昌幸と信繁(幸村)親子が西軍に、忠勝の娘婿の信幸が東軍に属するという形になりました。どちらが勝っても生き残れるように、という意図だったと言われていますが、信幸が本多家と関わりが深くなっていたことが、彼が東軍に所属する決意をするのに影響したと思われます。
こうした経緯があったため、戦後になって家康は、敵対した昌幸と信繁を処刑しようとします。しかし信幸と忠勝が強く助命嘆願を行ったため、家康はやむなく両者を紀州の九度山への配流とする減刑を行いました。
この忠勝の動きから、本多家と真田家のつながりが深くなっていたことがうかがえます。家康は何度も昌幸に煮え湯を飲まされていたため、できれば処刑したかったでしょうが、信幸だけならともかく、長年自分に尽くしてきた忠勝の言葉はむげにできなかったようです。
このことが、後に「大坂の陣」で豊臣秀頼に信繁が味方し、家康に危険をもたらす結果を生むのですが、この時点では誰も予測ができないことでした。
後に真田氏も譜代同然の立場になる
なお、この時に井伊直政も家康への口添えを行い、昌幸らの助命を勧めています。
その理由は「昌幸らを許せば、信幸は心から徳川氏のために尽くすようになるでしょう」というものでした。この直政の言葉通り、父と弟の助命の願いが聞き入れられたことで、信幸は徳川氏に誠実に仕えるようになり、やがて真田氏は譜代同様に扱われるようになっていきます。
忠勝と信幸の良好な関係もまた、それに寄与していたことでしょう。
伊勢・桑名に移封される
関ヶ原での功績により、家康から5万石を追加するとの内示を受けますが、忠勝はこれを固辞しています。このため、旧領を5万石に削減した上で次男の忠朝が大多喜藩主となり、忠勝は新たに伊勢・桑名10万石の大名となりました。
忠勝は桑名に移動すると、町割りや街道の整備事業を行い、この地が発展するための基礎を作り上げています。忠勝の死後、本多家は姫路や福島など、繰り返し各地へ転封されますが、江戸時代を通じて存続し、明治維新の後も華族として遇されることになります。
病にかかり、中枢から遠ざかる
関ヶ原の戦いの後は大きな戦いが発生しなくなり、家康は江戸幕府の統治体制を固めるため、政治力に秀でた人材を多く用いるようになっていきました。このため、忠勝や榊原康政のような、武に秀でた人材は中枢から遠ざけられるようになっていきます。
榊原康政は自ら「老臣が権力を争うのは亡国の兆しである」と述べてこの状況を受け入れましたが、忠勝も戦いがなくなったことを嘆きつつ、世の変化を受け入れていったようです。やがて1604年に病を患ったこともあり、忠勝は家康に隠居を申し出ますが、慰留されて大名の地位に留まっています。
この時点ではまだ大坂で豊臣秀頼が健在でしたので、武勇に優れた忠勝を桑名に配置したのは、豊臣氏の反抗に備える目的もあり、それゆえに隠居も許可されなかったのだと思われます。同様の理由で、井伊直政も琵琶湖のほとりにある彦根に配置されています。
戦場では無傷なれど、細工の最中にケガをする
忠勝は生涯で57度も戦場に赴きましたが、一度もかすり傷ひとつ負うことがなかったと言われています。忠勝は動きやすさを重視して軽装で戦場に出ていましたので、武術に秀でているだけでなく、よほどに戦場での危険を察知することに長けていたようです。
忠勝は偵察能力も優れており、ある時遠江に侵入してきた武田勝頼の軍勢を偵察したことがありました。そして敵の士気が非常に高いことを察知し、家康に撤退を進言しています。
家康はただちに忠勝の言葉を受け入れて撤退を決断しましたが、後になって、経済的に困窮しつつあった勝頼にとって、これが最後の外征の機会であり、そのために必勝を誓って士気が高かったのだということがわかりました。
忠勝は戦場の気配だけでそれを察知できる能力をもっていたわけで、そのあたりが危険を避け、ケガをするような状況に追い込まれなかったことの理由なのでしょう。
しかし忠勝はある日、持ち物に小刀で自分の名前を掘っていたところ、手を滑らせて指をケガをしてしまいます。そして「わしもこれで終わりか」と言いました。
その死
忠勝は1607年に眼病を患っており、細工の最中にケガをしたのは、その影響があったのだと思われます。そして病が重くなると、1609年に嫡男の忠政に家督を譲り、翌1610年に死去しました。享年は63でした。
生涯を通じて家康に忠義を尽くし続けた
忠勝は単に天下無双と呼ばれた精強な武将であっただけでなく、生涯を通じて家康に忠義を尽くしました。そして桶狭間の戦いを皮切りに、姉川の戦いや関ヶ原の戦いなど、家康の主要な戦いにすべて参戦し、目立った戦功を立てています。
また、一言坂の戦いや小牧・長久手の戦いで見せたように、家康の身に危険が迫れば、自らの命を惜しまずに家康を守ろうとする行動を見せており、このあたりの勇敢さと献身が、忠勝を凡百の、ただ強いだけの武将たちと隔てている点だと言えます。
信長から「花も実も兼ね備えている」と評されたのも、優れた武術と指揮能力、そしてそれを支える精神力を指してのことだったと思われます。家康が天下人になれた要因のひとつとして、忠勝のような人物から、忠誠を尽くすにふさわしいと思われていたことが挙げられるでしょう。
忠勝は臨終に際し、次のような言葉を遺しています。「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」実に、この言葉の通りに生きた人だと言えます。
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