運命って信じますか?運命を信じるのならば人の人生って生まれ落ちた時から誰かにつくられた筋書きをただそのままなぞり生き、そして終焉を迎えるドラマになってしまいます。はたしてそんなことがあるんでしょうか?私は違うと思いますが運命に関するいろいろな捉え方や考え方があるのでその中の気になったものを上げてみました。
人間の運命は決まっているか
決まっている部分と決まっていない部分がある。
運命には自由裁量の幅もある
人間の運命には、すでに決まっていて変えがたい部分もありますが、本人の自由意志による裁量に任されている部分もそうとうあると思います。その裁量の幅は、個人によってかなり差がついてくるものと考えられます。
では、人間の運命をつくっている要因は何でしょうか。一番目は、生まれてくる前に立てたと考えられる計画です。二番目は、地上に出てからの本人の努力です。三番目は、霊的影響です。この霊的影響のなかには、本人の守護霊や指導霊の影響もあれば、憑依霊などの悪霊の影響もあります。こうした要因が重なり合って、その人の運命が決まっていくのではないでしょうか。
運命が決まっていない証拠
考えていただきたい点は、「地上に生まれてくるときに、自分が地獄に堕ちる計画を立てて出てくる人はいない」ということです。「最悪の場合は、そうした結果になるかもしれない」とは思っても、「おそらく、そんなことはあるまい」と思って生まれてきているのです。しかし、現実には、かなりの数の人が地獄に堕ちています。こうした人は、「生まれ落ちてから死ぬまでの間に、運命にかなりの変更があった」と見てよいでしょう。変更があったのは、二番目の「本人の努力」と三番目の「霊的影響」の部分です。守護霊の指導を受けて、まっとうな人生を送れば問題はないのですが、心に曇りをつくり、間違った心のままに生きていると、悪しき霊たちに憑依され、心がさらに重く暗い方向へと傾いていき、地獄に堕ちることになるのではないでしょうか。
「運命を切り開く」
自分の未来は自分で作る
こんな素敵な言葉がテレビから、本から、インターネットから流れてきます。夢を追う人にとっては力が湧き出るような言葉ですし、野心を追う私も何度も使ったことがある言葉です。
だけどもし、あなたの未来は決まっていて、絶対に変わることなんてあり得ないとしたらどうしますか?運命を変えることなんて不可能だとしたら、これからどうやって生きていきますか?今日はそんな深い話について考えてみたいと思います。
時間は未来から流れてくる説
普通、時間は過去→現在→未来で流れているように感じるものです。時計の針も右回りで1から12までを刻みます。だけど右回りだなんて誰が決めたのでしょうか?
左回りで1から12を刻んでも良いし、なんなら1と12を逆さまにしてカウントダウン風にしても良いと思いませんか。頭の中では過去を後悔したり、未来を想像することはできても、今を生きている私たちは「現在」しか感じられない。
過去や未来を考えている自分も結局は「現在」の自分なのだから、言ってしまえば過去も未来もへったくりもない。一説によると、時間は未来から流れてくるという因果説があるそうです。時間を川の流れに表すと、未来が上流、現在は自分のいる真ん中、過去が下流。上流から桃がどんぶらこ、どんぶらこと真ん中まで流れて来て、おばあさんが桃を拾わなければそのまま下流へ押し流されていくイメージでしょうか。
未来の何らかの因果によって現在が発生し、現在の行動が過去となっていくというのです。この「時間は未来から過去に流れてくる」という説はプロ無職るってぃさんの記事がわかりやすく解説してくださっています。
時間は未来から過去に流れてることを意識できているか? 時間は未来から過去に向かって流れている 突然過ぎますが、「時間は未来から過去に流れてる」という話をみなさんは信じられますか?…
自分の決めた未来がやってくる
もし時間が未来から流れてきているのであれば、すでに未来は決まっているということになります。私たちが今やっている行動や思考なんかは、未来がやって来るための準備に過ぎません。
それならば未来を自分で決めてしまって、自分でどんな準備をすればいいのか決めちゃえば良いです。「5年後にお金持ちになってセミリタイアする」という未来を決めた30歳が投資の勉強をしたり、自動で収入が入る仕組みを作ったりすることも未来の準備。
さらに言えば浪費しまくることも、ダラダラとマンガを読むことも未来の準備。両者はまったく逆の行動に思えますが、どっちも未来の準備なのです。
浪費は違いますか?マンガを読み漁ることも「お金持ちになる夢」の準備じゃない?ならこう考えてみましょう。
本当の望みは言葉ではなく心が知っている
この30歳の夢は「5年後にお金持ちになってセミリタイアする」ということ。
実はこれ、本当の望みじゃないかもしれないんです。夢を聞かれたら誰だって大きなことを言います。お金持ちになる、大きな家を買う、世界一周するとかね。
だけど心では「めんどくさいからラクをしたい」「家や旅行よりもこの服が欲しい」っていうのが本音。実際のところほとんどの人の「やりたいこと」には本音と建前があるんです。
未来は本音の方に流れてきます。だからこの人のやりたいことが「今ラクをしたい」であれば、未来はそっちの方に流れてきて、欲しいものが次々と思い浮かんでしまったり、やけにマンガが読みたい衝動に駆られてしまうのです。
言葉で出した望みよりも心で思った望みの方に引き寄せられてくるので、自分の望みをハッキリさせておかないといけません。
未来も運命も決まっている
誤解をなくすために言うと、私は「お金持ちになる」という夢を掲げておきながら浪費をしたりダラダラ過ごしたりすることが悪いことだとは思っていません。
さらに「自分で未来を設定して努力すれば良いんじゃ?」ってごく当たり前なことを言いましたが、私は自分の未来を設定しようとは思いません。
なぜなら、そもそも自分の未来も運命も決まってて、今どんな行動をしていても絶対変わることはないと思っているから。これって「じゃあ俺は一生貧乏のままなのか…」って悲観するようなことじゃないんです。
ましてや「どう頑張ったって運命は決まってるし、もういいや」なんて諦めるわけでもありません。未来は決まってるけど、自分の結末は絶対に知ることができない。
神のみぞ知る領域になるため、なぜわざわざ悪い方向に考える必要があるのでしょうか?もしかすると仕事がうまくいってトントン拍子に出世するかもしれない。
もしかしたら宝くじが当たるかもしれない。はたまたおじいちゃんが実は自分にこっそり数億円の財産を残してくれるかもしれない。
未来なんて絶対に、誰にもわかりません。だけど、生まれた時からすでに決まっているんだと私は思っています。
安心して努力
赤ちゃんは自分の運命を知って生まれてくるのだと聞いたことがあります。
たとえそれが1歳にも満たず死んでしまう運命だったとしても、知っていながら生まれ、両親に守られながら精一杯生きて、両親にたくさんの思い出を残し、愛を教えて逝くのだそう。この赤ちゃんの役目は大人になって仕事をすることではなく、両親に愛を教えることなのです。
ここで言いたいのは、自分の運命を知りつつ精一杯生きる赤ちゃんと同じように私たちも安心して努力して良いということ。
自分の夢がある人は少なからず「本当にできるのだろうか?」「失敗が怖い」という悩みを抱えているもの。だけど自分の運命が決まっていることを知っていれば「まぁ運命は決まってるし、今悩んでも仕方ないか」って思える。
悩むことがなくなれば安心して努力ができます。自分の悩みはいざ現実化したときに悩めばいいのです。自分の運命は決まっていると思って安心しているし、リスクヘッジはしますが、どっちに転んでも「まぁいいか」という精神を持っています。
どうしても不安に思うことは全部書き出して精神を安定させるときも。もっと力を抜いて良い。もっと安心して暮らして良い。未来はどこにも逃げないのですから。
「運命」というと「運命の人」「運命の出会い」
といわれるように、あらかじめ自分にやってくると決まっている
でき事のように思います。
果たして、自分に起きる運命は、あらかじめ決まっているのでしょうか?
決まっていないとすれば、どうすれば運命を変えられるのでしょうか?
運命の3つの説
私たちの人生には、色々な出会いや別れがあります。また、色々な不幸や災難が起きます。そんな色々なできごとが起きたとき、「これは運命なのだろうか」と思います。
また、不穏な兆しがあると、「これからどんな運命が待ち受けているのだろう?」
と思います。「運命」というと、自分の人生にやってくるできごとをいいます。
例えば、自分は将来どんな仕事をするのか。どんな人と出会うのか?誰と結婚するの?
仕事はうまくいくのか?将来、事故や火事、何らかの事件に巻き込まれるのか?病気になるとすれば、いつどんな病気なのか?何歳まで生きるのか?誰しも一番関心があるのが、自分の運命です。
この「運命」がどのように決まるのかについて、昔から3つの説があります。
1.偶然論
2.神の与えたもの
3.決定論(宿命論)の3つです。
運命は偶然決まる
最初の「偶然論」とは、運命には何の原因ないというものです。
何かのアクシデントが起きると、「運が悪かった」といいます。
例えば、スピード違反で捕まったとき、「もっとスピードを出しても捕まっていない人がたくさんいるのに、なんで自分だけこんな目に合わなければならないんだ。自分がスピード違反で捕まったのには原因がない。運が悪かった」と思います。
ところが、自分が不幸に見舞われたのは偶然で原因はないと考えると、自分の運命を自分でコントロールできません。自分の人生はまったく予測できないランダムの産物になります。そのように考えると、苦しみがもっと大きくなると、ショーペンハウアーは言っています。「われわれに苦しみをもたらした当の事情が偶然にすぎなかったとわれわれが考えること自体が、苦しみにむしろとげを与えるものなのである」(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
原因がないと言うのは、その人に原因が見つからないというだけであって、原因が存在しないのではありません。スピード違反で捕まる原因は、スピード違反をしたからです。スピード違反をしなければ捕まりません。この世のことはどんなことも原因があります。
仏教では「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理を根幹として説かれていますので、このような「運命の原因がない」という考え方は、「無因無縁論」として、間違いであると教えられています。
人間の知恵には限界があり、科学や医学でわかるのは、今のところ単純なことだけですので、まだまだ人間にわからないことはたくさんあります。しかし、原因はあると思うからこそ、その原因を解明しようと、日夜研究が続けられているのです。原因はないのではなく、必ずあるのですが、わからないだけです。
次に、原因があるのに分からないとなると、人間は、「運命は神によって与えられたものだとか、自分たちを超える大いなる存在に決められたのだ」と考えたくなります。
これが、2番目の運命論「神の与えたもの」という考え方です。
運命は神が与えたもの
このように考えている人は、何か苦しいことがあると、「神が与えた試練だ」と考えます。全知全能の神が存在して、その神が、自分を向上させるために、試練を与えていると考えるのです。
また、星占いなども、いつどこで生まれたのかによってすでに人生に起きるできごとは、大いなる宇宙の意志によって決まっていると考えているので、「星の巡り合わせが悪かった」とか「不幸な星のもとに生まれた」などといってそれを星の位置から知ろうとします。
キリスト教では、もともと星の位置で運命が決まっているという運命論を批判して、自由意志が強調されましたが、やはり全知全能の神が運命を与えていることになるので、
自由意志と矛盾してしまい、現在でもキリスト教の人たちの間で意見が分かれています。
イスラムでは、運命は人間の力ではどうすることもできず、全知全能の神が与えたものと考えています。この考え方の場合、乗り越えられそうもない大きな不幸がやってきたときに説明がつかなくなります。
キリスト教の世界では、1755年にマグニチュード9のリスボン地震が起き、2万人が即死し、15mの津波で1万人が死んだといわれます。リスボンの町の85%が廃墟と化し、約6万人が亡くなったといわれます。
あまりの甚大な被害に、当時、なぜ神がこのような試練を与えるのか誰も説明がつきませんでした。
また、自分自身にとっても、不治の病にかかったり、対処不可能な不幸がやってきたとき、神を恨まずにおれなくなります。
ブッダの当時でも、バラモン教では、世界を創造し支配する最高神が存在し、これを「自在天」といいます。シヴァ神の別名です。
このような「すべては神さまが決めてしまった」という考え方を「自在神化作説」といいそのような人たちを自在天外道といって、仏教では間違いだと排斥されています。
なぜなら、人が殺生や泥棒や不倫など悪を行うのも神が決めたことだとすれば、神は悪の存在になってしまいますし、人はこうすべきだという教えもなくなってしまうからだと『中阿含経』に説かれています。
ところが、間違った運命論には、現代に通ずるものがもう1つあります。それが、「決定論」です。
運命は過去から決まってる
このような神の存在なしで、命はすでに決まっているという考え方を「決定論」とか「宿命論」といいます。これは、ニュートン力学ができた頃は、宇宙がある法則によって機械のように動いているだけだとすれば、未来の運命も決まっているという説がありました。
ところが現代物理学の「不確定性原理」によって、位置と運動量は同時に決まらないことが分かり、未来の運命は原理的に知ることはできないと分かりました。
仏教では、このように運命が過去から決まっていて変えることができないという考え方を宿作因説といい、間違いだと排斥されています。
しかもこの考え方の人は、
「私が殺生をするのは、過去から決まっていた運命です」
「私が泥棒をするのは、過去から決まっていた運命です」
「私が不倫をするのは、過去から決まっていた運命です」
と言って、手がつけられません。人はこう生きるべきだという教えがなくなり、幸せになることはできないとブッダが祇園精舎におられた時に説かれています。
3つの運命論に共通する問題点
まとめると、運命論には昔から以下の3つの考え方があります。
1.偶然論
2.神の与えたもの
3.決定論(宿命論)
そして仏教では、すでに
1.無因無縁論
2.自在神化作説
3.宿作因説として、すべて間違いだと教えられています。
これらの3つはどれも共通して、
「私が殺生をするのは原因はありません」
「私が殺生をするのは神の決めたことです」
「私が殺生をするのは過去から決まっていた運命です」と言われると手がつけられません。この3つの運命論は、信じた人の努力する気持ちを失わせてしまい、幸せになれなくしてしまう考え方なのです。
では仏教では、運命はどのように生じるのでしょうか?
運命はどのように決まるのか
仏教は「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理を根幹として説かれています。
そして私たちの運命は、どのように決まるのかというと、自分の行いが引き起こしたものだと教えられています。これを自業自得といいます。
では、自分の行いと運命には、どんな関係があるかというと、善因善果(ぜんいんぜんか)悪因悪果(あくいんあっか)自因自果(じいんじか)という法則が運命を支配していると教えられています。
「因」とは行いのことで、「果」とは、運命のことです。
善い行いをすれば、幸せな運命が生み出され、悪い行いをすれば不幸や災難が引き起こされます。自分の行いは、自分に運命を生ずるということです。
私たちが、心と口と体でする行いは、不滅の業力となって阿頼耶識(あらやしき)という心におさまり、やがて縁がきたときに自分の運命を生み出するのです。
自分のたねまきに応じて、自分の運命が決まりますから、因に応じて果が報う「因果応報(いんがおうほう)」ともいわれます。ではどうすれば幸せな運命が生み出されるのでしょうか?
どうすれば幸せになれるのか
幸せな運命がやってくるようにするには、善因善果と教えられているように、善い行いをすれば、因果の道理にしたがって、幸せな運命がやってきます。
ブッダは、色々な善い行いを教えられていますが、あらゆる善を6つにまとめられたのが、六波羅蜜(ろくはらみつ)です。
六波羅蜜とは、以下の6つです。
1布施(ふせ)……親切
2持戒(じかい)……言行一致
3忍辱(にんにく)……忍耐
4精進(しょうじん)……努力
5禅定(ぜんじょう)……反省
6智慧(ちえ)……修養これらの善い行いとその組み合わせによって、幸せな運命がやってくるのです。仏教は、運命が生まれたときから決まっていて、もうどうにもならないのかという宿命論ではありません。
ブッダはこの宿命論を因果の道理に反するとして徹底的に打ち破っておられます。
仏教では、今の行いによって、これからの運命はいくらでも変えられると教えられています。未来は、今のたねまきによって変えられるのです。特に仏教では、私たちが苦しみ迷い続けなければならない根本原因があると教えられ、仏教を聞いてそれを除けば
未来永遠の幸せになれると教えられています。
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