七福神と聞いて、思い浮かべものは、なんとなくおめでたいイメージであったり、宝船に乗っているのを想像してしまいます。
「7人の福の神様」といわれて7人すべての神様のお名前をいえなくても神様たちのお名前を聞けば、全員は無理でも何人かは聞いたことがあると思い出す方もいらっしゃるでしょう。
今回は、七福神の由来、名前や意味、七福神めぐりについて調べてみました。
庶民の身近にあって暮らしに幸運をもたらす七柱の福の神「七福神」が、現在のような形で人々に定着したのは江戸時代中頃。浮世絵にも宝船に乗った七福神が描かれ、正月には初詣でを兼ねての七福神詣でが庶民の間で盛んに行われました。
それまでは三福神だったり五福神だったり、神々も一定ではなかったのですが、享和年間(1801~3)には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、布袋尊、福禄寿、寿老人と、今の顔ぶれに落ち着いたといいます。
実はこの七柱のうち恵比寿を除いて六柱はインドや中国など海の向こうからやってきた神々なんです。
国際色豊かというかエキゾチックなメンバー構成なのであります。
七福神の由来
七福神とは、福徳(幸福と財産)の神様として古くから信仰されている7柱の神様のことをいいます。
(神様は1人、2人ではなく1柱、2柱と数えます。読み方は「はしら」です)
仏教経典の「七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)七難を消滅すれば、七福が生ずる」から、七福神の信仰が生まれたそうです。
室町時代(1336年~1573年ごろ)のころから、幸運、金運、福を授けてくださる神様として七柱いっしょに信仰されるようになりました。
宝船に乗っている絵が多いのは、七福神が海の向こうの世界からいらっしゃるという発想からきているそうです。
七福神の名前と意味
それでは、七柱の七福神の名前の読み方とどんな神様なのかを見ていきましょう。
七福神 恵比寿
七福神中、唯―純国産の神で、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた蛭子尊(ひるこのみこと)といわれる。
烏帽子に狩衣、釣り竿と魚籠を持ち、立派な鯛を抱えた姿で描かれる。
古くは漁民の守護神だったが、後に商いの神に。大黒天と対で福の神として、庶民の信仰を集めた。
ご利益は、主に大漁豊作、商売繁盛。
恵比寿様は最も日本人に馴染みのある七福神
全国に千五百社ある恵比寿神社
日本では御稲荷様、八幡様などの多様な神様が祭られています。数の多い神社を、表にして示します。
これをみると、七福神を祭る神社の数が少ないことがわかります。
大国主命は日本神話の中の有力な神様ですが、他の信仰を融合しない古い形をとる大国主命を祭神とする神社の数は、それほど多くありません。
金昆羅神社は大国主命信仰とインドの宮毘羅大将信仰が習合した信仰によってつくられた新しいもので、本来の大国主命信仰とは別のものです。
金昆羅神社が千九百社あるのを別にすれば、七福神関係の神社で群を抜いて多いのが千五百社ある恵比寿神社です。
漁民の夷信仰と西宮神社の布教
恵比寿様は七福神の中でただ一つの、日本古来の神です。つまりのちに神仏習合でインドの神が日本の神様と結びつけられたものを除けば、恵比寿様だけが『古事記』などの日本神話の神となります。
日本の漁村には、漂着物を遠方から来た神様とみて、夷様として祭る習俗が広まっていて恵比寿様が福の神とされると、このような夷様を祭った神社の多くが恵比寿神社になりました。
古代豪族が日本神話の事代主命を祭っていた神社が、恵比寿神社と名を変えて福の神とされた例もあります。
さらに蛭子命を祭る西宮神社が、愧儡師を用いて広範囲に布教を行なったために、各地の商工民が恵比寿神社を建てた。
こういった経緯によって恵比寿様が、日本人に最も身近な七福神となっていきました。
七福神 大黒天
もともとは、マハーカーラと呼ばれるヒンドゥー教の神で、創造と破壊を司るシヴァ神の化身。仏法守護の神として伝来したが、後に日本神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)と結びつき、福の神として信仰された。打ち出の小槌と大きな袋を持ち、米俵と白鼠を従えた姿で描かれる。ご利益は五穀豊穣、家産増進、子孫繁栄。
縁起の良い大黒舞
大黒様の姿
『塵塚物語』は、大黒天の信仰は天文、永禄年間(1532―1570)に急速に京都に広まったと記しています。
京都で戦国時代の戦乱が続く中で、将来に不安を持った庶民が福の神に救いを求めたのでしょう。
かれらは、「戦火で家を焼かれても、金さえ蓄えていれば何とかなる」と考えていたのかもしれません。京都に大黒天信仰が広がった時期に、私たちのよく知る大黒様の姿が作られました。
大黒様は温和な表情をして、老人が用いる大黒頭巾をかぶり、恵比寿様と同じ狩衣を着用している。
そして左手で宝物の袋を、右手で人びとに幸福を授ける打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。
この米俵は、「誰もが飢えることのない国を作ってあげよう」と人びとに語るものでありました。
大黒舞の芸人の活躍
戦国時代の京都の町では、正月などの祝い事の時に大黒舞を舞って歩く旅芸人の姿が多く見られた。
かれらは大黒様の姿をして、次の歌に合わせて舞ったのです。
「一に俵ふまえて、二ににつこり笑うて、三に酒つくりて、四つ世の中良いように、五ついつもの如くに、六つ無病息災に、七つ何事もないように、八つ屋敷広めて、九つ小倉を建て並べ、十でとうと治まる御世こそめでたけれ」戦国動乱の不安の中で、庶民たちは大黒舞を見て、「苦しい時には、明るく笑って、将来長者(金持ち)になる夢を見よう」と考え恵比寿信仰は西宮神社の布教によつて広められたが、大黒天信仰は京都の庶民がすすんで受け入れて各地に伝えていったものです。
京都に大黒天信仰が広まった時期の終わり頃(1568年)に、織田信長が入京したあと信長の支配のもとでしだいに戦乱がおさまり、京都は織田信長、豊臣秀吉の政権下に好況を迎えることになります。
七福神 毘沙門天
四天王の一神で、財宝の象徴である北方の守護神。ルーツはヒンドゥー教の神で、仏教とともに伝来した。
甲冑を着けて矛と宝塔を持ち、邪鬼を踏む姿で描かれる。
古くは武運の神として上杉謙信ら戦国武将の信仰を集めた。厄除け。恵方の神であり、財運を授け、大願成就を助けるとされる。
中国で武神となった毘沙門天が日本で財運の神に
毘沙門天に戦勝を願う
中国に、次のような記録があります。「唐の天宝年中(742―756)に、西域(シルクロード沿いの中央アジア)の異民族の大軍が唐に侵攻してきました。この時皇帝が不空という学問僧に昆沙門天を祭らせたところ、昆沙門天の第二子である独健が戦場に現われて唐軍を励まして敵を敗走させた」そのため皇帝は、国を防衛するすべての城の西北隅に毘沙門天像を安置させたとあります。
このような話が中国に、多く伝わって不空は占術に通じた僧侶としても知られ、その学問は日本の空海にも大きな影響を与えました。
日本にも、武神としての昆沙門信仰が伝わり聖徳太子は四天王に、物部氏との戦いの戦勝を祈り平安京が建設されたあと、朝廷は京都の北方の呪的な守りとするために、昆沙門天を祭る鞍馬寺を重んじています。
京都の商工民と毘沙門天
武神として毘沙門天信仰は江戸時代まで受け継がれますが、室町時代後半の京都で福の神としての昆沙門天信仰が一挙に広がり多くの者が、財運を求めて鞍馬寺を参詣するようになったのです。
京都の相国寺の記録である『蔭涼軒日録』長享〓一年(一四八八)六月三日の箇所に、次のような記述があります。
「鞍馬に参って、帰りに昆沙門天像一体を買い求めました。
今日は庚寅という毘沙門天に縁のある日だつたために貴賤男女二万人ほどが鞍馬寺を詣でたと聞いた」この記事は相国寺の書記を担当する何人もの僧侶が、寺務のありさまや日常の見聞を長期にわたつて書き継いだものの一部です。
直接の原因は明らかではないのですが、「鞍馬寺を信仰する者が幸運なことで金持ちになった」といった噂などがあったのでしょう。
その噂をきつかけに、鞍馬寺が福の神として注目されるようになったと考えられています。
昆沙門天がもとがインドの財運の神であったことも、昆沙門天を福の神にする一因です。
『毘沙門天王経』という仏典に、昆沙門天を信仰すれば、「財宝富貴自在の福利を得る」とあります。
昆沙門天の人気が高まったことによつて、鞍馬寺は自ら布教しなくても多くの信者を集めました。
七福神 弁財天
七福神中、唯一の女神。サラバスティ樫な例と呼ばれるインド古代神話の水神で、ヒンドゥー教では梵天(ぼんてん)の妃。琵琶を奏でる絶世の美女の姿で描かれることが多く水の流れる妙音から音楽、弁舌を司るとされ雄弁と智恵を授け、芸能、学問の分野での成功、名誉を与え金運、財運をもたらすともされます。
弁天様は強かった、海の女神の悪龍退治
海野女神の悪霊退治
神奈川県藤沢市の江の島にある江島神社は、江島弁天、江島明神とも呼ばれた神仏習合の神社で、そこは岩本院、上ノ坊、下ノ坊の三カ所の別当(神社の運営にあたる社僧)によって経営されてきました。
明治初年の神仏分離によつて、現在の江島神社は、宗像三神を祭る神社になっています。
古くは近くの漁民の集団が、風景の美しい江の島で海の神を祭っていたのでしょう。
そのあと文覚上人が平安時代末に、そこを弁財天を祭る神社にしました。江の島には、このような伝説が伝わっています。
「昔は江の島という島はなく、海に住む悪龍がさまざまな乱暴をして人びとを苦しめていてある時に大地震が起き、江の島が作られました。
この時弁財天が天から江の島に舞い降りて来て、悪龍を従えた。彼女は、この時悪龍にこう言った。
『あなたが殺生を止めて人びとの守護神になるなら、私はあなたの妻になります』悪龍はこの言葉によつて、弁財天に従って土地の守り神になった」この話はのちに江島神社の社僧がつくったものでしょう。
近くの人が祭っていた海の神を龍にして、文覚が勧請した弁財天が龍を従えた形をとつて社僧が江の島の神を祭ることを正当化したのです。
関東から広まる弁財天信仰
江の島の弁財天は、室町時代に福の神としてひろく信仰されることになり、これは『金光明最勝王経』の弁財天が財運をもたらすとする教えにもとづくものです。
江戸時代に入ると、下ノ坊と岩本院の社僧が関東の各地を巡り江島神社の御利益を説いてまわったので、多くの庶民が江の島に参詣するようになった。
江戸の町人にとつて一泊の江の島詣では楽しい行楽の旅でした。
七福神信仰の多くは京都を中心とする上方から広がったものだが、江島神社の布教によつて弁財天信仰だけは関東を中心に繁栄する形をとりました。
七福神 布袋尊
七福神中、唯一の実在人物。中国の戦国時代の禅僧で名を契此(かいし)といい、諸国を放浪して預言、託宣を行い、優れた予知能力から弥勒菩薩の化身とされた。
福々しい笑顔と太鼓腹、肩に下げた大きな袋が特徴。
この袋は喜捨物を入れる袋だが堪忍袋ともいわれ、人格を円満に導く功徳ありとされる評知と和合金運招福の神。
布袋尊は神様になった僧侶
唐代末期の中国の謎の僧侶
布袋尊の名で七福神の一つとなった布袋和尚は、唐代末期の中国に実在した僧侶です。
かれは死後に弥勒菩薩の生まれ変わりだと考えられて、神格化されました。しかし布袋和尚の実像は、ほとんど明らかでなく、かれは官寺で出世を目指すのを好まず、一生、放浪生活をおくつたと伝えられています。
このような経歴が、布袋和尚の生涯を不確かなものにしています。
布袋和尚は916年に、浙江省の岳林寺で亡くなったと伝えられていて、このことは、信じてられます。
布袋和尚は本名を契此(かいし)といい、大きな布の袋を担いであちこち旅をしたために「布袋和尚」と呼ばれたといいます。
布袋和尚の考える仏法
臨済宗の坐禅は、僧侶や参禅者に「公案」と呼ばれる問題を与えてこれを考えさせる形をとっていて無欲な生活を貫いた布袋和尚は、質素を重んじる立場をとる禅僧に慕われました。
禅僧の間で伝えられた公案の中で、布袋和尚を主人公とする次のようなものがあ2つ。
「一人の僧侶が布袋和尚の前を通り過ぎた時、布袋和尚はその僧侶に銅銭一枚を恵んでほしいと頼んだ。僧侶は銅銭を和尚に渡し、『銅銭を差し上げる代わりに、 二一口で仏法を説き尽くしてください』と頼んだ。
すると布袋和尚は、 三百も口にせず、一肩に担いでいた布袋を地面に投げ出して偉い人に敬意を示すように謹んで直立した」
公案を与えられた者は、この時布袋和尚が何を教えようとしたのか解くのであり一つの答えとして、次のように解釈することもできるでしょう。
「仏法とは全財産を差し出して、最上級の礼をもって学ぶべきものである」布袋和尚を慕う者は、和尚は仏法を敬う気持ちから無欲な生活をとり続けたと解釈したのです。
七福神 寿老人
中国の道教の神で南極星の化身。白髪に頭巾、自く長い髭をたくわえ、経典をつけた杖と桃を持つ姿で描かれ鹿を伴って描かれることも多く桃も鹿も長寿の象徴とされ、健康、長寿を授ける仙人です。
ご利益は長寿延命、諸病平癒、富貴繁栄、子孫繁栄など。「元気で長生き」という現代に求められるテーマにぴったりの神。
鹿を伴った寿老人と藤原氏の謎
寿老人の杖と着物
日本人にとつて、寿老人は福禄寿よりさらに馴染みの薄い神である。次項の自家(自髭)神社を別にすれば、寿老人を主祭神とする神社は、日本に一つもみられない。
室町時代に中国文化にあこがれる禅僧が、福禄寿と寿老人の信仰を取り入れたのですが、この中国人に人気のあった二柱の神様は、日本では禅寺の外にはほとんど広まりませんでした。
そのため七福神巡りの時に、寺院が本尊とは別に祭る福禄寿像や寿老人像を拝むことが多いのです。
寿老人は杖を持ち、杖に巻物をぶら下げている姿に描かれることが多くこの巻物は「司命の巻」と呼ばれる一人一人の人間の寿命を記したものだといわれています。
寿老人と春日信仰
中国の寿老人の絵に、蝙蝠と鹿が添えられていることが多く中国の蝙蝠の蝠(ホ〔フク〕の音が福(ホ〔フク〕と同じで、鹿(ロク)と禄(ロク)の音も共通で、そのために蝙蝠や鹿は、福をもたらす縁起の良い生き物とされました。
日本には蝙蝠を好む風習はみられないが、鹿は春日大社(奈良市)や鹿島神宮(茨城県鹿島市)の神様の神使とされていた。
春日大社は、朝廷で最も有力な貴族である藤原氏の氏神で、日本国内に多くの分社をもっています。
春日信仰をもつ人びとが、鹿を従える寿老人に親近感を感じ、寿老人を福の神として重んじる集団の中心となったのでしょう。
しかし個性のないありふれた上品な老人の姿をした寿老人は、印象が薄くそのため寿老人が庶民に馴染み深い福の神となっていくのは、江戸時代に入ってからであると考えられます。
七福神 福禄寿
寿老人同様、道教の神で南極星の化身とされる。身長の約半分を占める長い頭と長い白髭が特徴。杖をつき、長寿の象徴である鶴や亀を従えた姿でも描かれる道教の三徳、福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長寿)を備え、人の寿命を知るとされる。ご利益は子孫繁栄、富貴繁栄、健康長寿。
鶴亀を従える福禄寿
福と禄と寿を授ける神
中国では福禄寿は長頭で背が低い異相の老人に、寿老人は端正な顔だちの仙人のような老人として描かれて、そのため日本の禅寺でも福禄寿と寿老人は全く別の神様として扱われました。
福禄寿は杖を持って、鶴や亀を従えた姿に描かれることが多い。この杖は、鉱脈や水源の場所を示して、人びとを豊かにするためのものであると説明されている。鶴と亀は長寿を象徴する動物です。
道教では、福、禄、寿、つまり幸福と富貴と長寿が人間の三大願望とされていた。そして、中国人は福禄寿は、福、禄、寿の三つすべてを人間に授ける神だと考えた。もとは福人、禄人、寿人の三人の仙人が信仰されていたが、二人の仙人が合わさって福禄寿の神になったと説明されることもあります。
日本でもこのような中国の信仰にならつて、福禄寿が人間のすべての願いを叶える福の神として祭られるようになったのです。
この福禄寿信仰は比較的早いうちから庶民に広がったとみられ縦に長い額を持つ個性的な福禄寿の顔が、庶民に面白がられたためでしょう。
中国の泰山の山の神と福禄寿
道教では、中国のさまざまな山の神が祭られていた。「泰山府君」と呼ばれる山東省の泰山の神は、福禄寿と同一の神であるとする説もありました。
泰山府君は人間の寿命をつかさどる神と考えられており、仏教では閻魔大王の書記とされていた。
このことによつて泰山府君が、寿命を授ける福禄寿と同一の神とされたのでしょう。
中国仏教の泰山府君の信仰が伝わったあと、日本では泰山府君は地蔵菩薩を本地(本体)とする赤山権現赤山明概とされました。
京都の赤山禅院で祭る、赤山明神は福禄寿と同一の神だとされている。
縁日の五日に赤山禅院に参拝すると商売が繁昌するといわれているため、赤山禅院は京都とその近郊の商人の参詣者を多く集めている。
この赤山明神が、福禄寿を祭神とする日本でほぼ唯一の神社です。
七福神めぐりとご利益
江戸時代に広まった風習で、七福神を祀っている寺社を巡ることを言います。
期間は松の内が良いとされています。松の内とは、お正月飾りを飾っておく期間のことで、関東では元日から1月7日までをいいます。
関西では1月15日までになりますが、この期間は神様が家にいらっしゃっていると考えられています。
そのため、松の内に七福神が祀られている寺社に「七福神めぐり」をすることによって、七福神からの加護を受け、福を授かると言われているのです。
また、「七難即滅・七福即生(七つの災難から逃れ、七つの福徳を授かる)」のご利益があるといわれています。
英語で七福神は
七福神は英語で「The Seven Lucky Gods」「Seven Gods of Fortune」「The Seven Deities of Good Fortune」といいます。
また、七福神、七柱はそれぞれ以下のようになります。
・恵比寿・・「God of Development」
・弁財天・・・「God of Beauty」
・布袋・・・「God of Cleverness」
・毘沙門天・・・「God of Success」
・大黒天・・・「God of Wealth」
・寿老人・・・「God of Health」
・福禄寿・・・「God of Happiness」
七福神が七柱の神様のことということはわかっていても、その中で日本の神様は恵比寿さまだけだったことに驚きます。
インドや中国からいらっしゃった神様たちが、現在の日本でも信仰されているのは、さまざまな宗教や信仰が受け入れられているのは日本らしいとは思います。
お正月には初詣に行く方も大勢いらっしゃると思いますが、七福神を祀っている寺社を調べて七福神めぐりをするのも良いかもしれません。
七福神と関係の深いもの
恵方巻きの具材の由来は七福神に起因しているらしいです。
七福神について気になる謎
七福神と呼ばれる神様たちは、現在の日本で最も人気のある神様かもしれません。
日本中のいたる所に、七福神巡りの霊場が見られます。
広く知られた七福神の霊場は、数えきれない七福神巡りのコースがあります。
七福神巡りは、昭和五十年代なかば(一九七八―八三年頃)に急にふえました。
日本橋七福神などは、この時期につくられたものです。
この頃から、 一月一日から七日までの間に七福神を参拝する人が多く見られるようになりました。
誰もが貧乏を嫌い、豊かな生活を望んで、七福神の神様たちにお願いをして歩くのです。
日本が高度経済成長をとげていた時代には、日本人の八、九割が中流意識をもっていました。
しかし高度経済成長が終わって先が見えない時代になり、その少し後に七福神巡りが流行しはじめたのです。
七福神は、インド、中国、日本のきまざまな神様から成ります。
日本では生まれも育ちも違う神様たちが、力を合わせて人びとに福を授けると考えられたのです。
名前にちなんだご利益や由来などが存在しているのも魅力の一つと思います。
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