師走、師匠も走り回るほど忙しい一年の締めくくりでもある12月。
新年を迎えるための準備や、年内に終わらせたい仕事などで忙しい日々を送る人も多いことでしょう。
忙しさのあまり、気が付いたら年末だったということも多いとおもいます、12月にもいろいろなイベントや行事があります。
12月のイベント・行事・記念日・風物詩
お歳暮
日ごろお世話になっている方への年末のご挨拶。
一般的に、関東では12月はじめから12月25日まで、関東以外では12月13日から12月25日までといわれていますが、最近はお歳暮を贈り始める時期はあまり気にされなくなっているようです。
しかし、届くのが遅すぎるとマナー違反と思う人も多いようですので、12月25日までには届くようにしましょう。
お歳暮というと、お世話になった方への年末のご挨拶というイメージがありますが、お歳暮を贈る時期と期間はいつ。
お世話になった方へのご挨拶なのですから、時期を間違えるとお礼も失礼になってしまいます。
また、お歳暮をいただいたときのお礼状はどのようにすればいいのでしょうか。お礼状の書き方、例文もご紹介します。
お歳暮
お歳暮は、嫁いだ娘や、分家の人などが、お正月に先祖の霊や神様をお迎えするために実家・本家にお供え物や贈り物をした日本古来の習わしが起源と言われています。
年越しやお正月料理に必要な、塩鮭や数の子、餅やするめなどの食料品を、お正月の準備を始めるころに贈ったそうです。
現在はお世話になっている方への年末の挨拶となり、贈り物も食料品ではなくさまざまなものが贈られています。
お歳暮の時期
お歳暮の「歳暮」とは、年の暮れをさす言葉です。年の暮れに、一年間お世話になった方へ贈り物をするのですが、地域によって異なるようです。
一般的に、関東以外では12月13日から12月25日まで、関東では12月はじめから12月25日までと言われていますが、最近ではお歳暮を取り扱っている店舗や配送業者などが、お歳暮を贈る時期を分散させるために11月になったら受付をはじめ、早めの配達は割引をするなどのサービスをしているので、お歳暮を贈りはじめる時期はあまり気にされなくなっているようです。
しかし、お歳暮を贈るタイミングをあまり気にされなくなっていても、贈る時期が遅くなることはマナーとして良くないと感じる人が多いようです。
年末になればなるほど、忙しかったり留守にしたりする家庭が多いため、遅くても必ず12月25日までには届くように手配しましたほうが無難かもしれません。
お礼状の書き方と例文
お歳暮をいただいたら、なるべく早くお礼状を出しましょう。
親しい間柄であれば、電話やメールで済ませることもあるかもしれませんが、正式にはお礼状を出すのがマナーです。
また、便せんに縦書きで手書きするのが正式ですが、横書きや、ハガキでも問題ないとされています。
基本的なお礼状の書き方は以下の通りです。
・頭語(拝啓)
・時候の挨拶
・安否の挨拶
・お礼の言葉(自分だけではなく家族も喜んでいる様子も伝える)
・相手の体調を気遣う言葉など
・結びの言葉
・結語(敬具)
・日付
・自分の名前
友人や知人に対してのお礼状の例文
拝啓
寒さ厳しき折 ○○様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
さて、この度は大変結構なお品をいただき、本当にありがとうございました。
家族一同、大変喜んでおります。
寒さはまだまだ続くようです。
お体は十分ご自愛くださいませ。
略儀ながら書中にてお礼申し上げます。
敬具
日付
自分の名前
仕事関係でのお礼状の例文
拝啓
師走の候、貴社ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
さて、この度はお心尽くしの品をお送りいただきまして誠にありがとうございました。
有難く拝受させていただきます。
今年も残り僅かですが、日毎に寒さも増してまいりますので、皆さまどうぞご自愛くださいませ。
略儀ながら書中をもちまして御礼申し上げます。
敬具
日付
自分の会社名
自分の名前
お歳暮は、一年間の感謝の気持ちを贈るものです。お礼状は、その気持ちへの感謝です。
電話やメールで済ませるのは簡単ですが、感謝の気持ちを込めて筆を取ってくれたと思う方々もまだまだ多いです。お歳暮を贈る人も、受け取る人も、感謝の気持ちで行っていることなので、今後も良い関係が続いていくことでしょう。
針供養
折れたり、曲がったり、錆びたりすることで使えなくなった縫い針を神社やお寺に納め、針を供養し、裁縫の上達を祈る行事です。
これまで硬い生地に何度も糸を通してきた針に、最後は柔らかいところで休んで成仏してほしいという労いの意味を込め、豆腐やこんにゃくのような柔らかいものに針を刺すそうです。
歳の市
年末にお正月用品や縁起物などを売る市のことです。
お正月準備のために多くの人が訪れ、各地で大変なにぎわいをみせているようです。
12月に入ると新しい年を迎えるお正月の準備で忙しくなります。
そんなとき「歳の市(としのいち)」「羽子板市(はごいたいち)」が開かれるという情報を耳にすることがあるかもしれません。
年末の忙しい時期に開かれる「歳の市」「羽子板市」とは、どういうものなのでしょうか?
東京の開催情報についても調べてみたいと思います。
歳の市
歳の市は、年末にお正月用品や縁起物などを売る市のことです。
主に、お正月に必要な飾りや、海産物、乾物、餅などを売ることを目的としており、バザーのようなものと考えるとわかりやすいと思います。
酉の市(とりのいち)というものもありますが、これは歳の市が枝分かれしたものといわれています。
「市」は神社仏閣の前で定期的に行われていましたが、歳の暮れに行われる市にはお正月の準備のために人が大勢訪れるようになり、定期的な市とは別に「歳の市」と呼ぶようになったそうです。
現在は「晦日市(みそかいち)」「十日市(とおかまち)」などと名前のつけられた市もありますが、いずれもお正月用品や縁起物を売る「歳の市」です。
歳の市のはじまりは、江戸時代(1603年~1868年)初期の浅草だといわれています。
江戸時代の中期ごろまでは歳の市は浅草に限られていましたが、次第に江戸の各地へ広がります。
明治時代(1868年~1912年)以降は、通常の商店でお正月用品を購入するようになり、歳の市は次第にすたれていき、江戸の各地で開かれていた歳の市は数が減り、歳の市のはじまりといわれている浅草では、羽子板市に重点が移り現在も続いています。
羽子板市
歳の市がはじまったころは、浅草でもお正月用品が中心に売られていました。
そのうち羽根つき用の羽子板も売られるようになります。羽子板に人気の歌舞伎役者の舞台姿が似顔絵として貼り付けられるようになると江戸の女性たちはひいきの役者の羽子板を競うように買い求めたそうです。
羽子板の羽根には女児が健やかに育つよう願いが込められ、女児の出産には羽子板を贈る習わしがありました。女児の健やかな成長を願う羽子板と、女性たちが心をときめかせて買い求めた羽子板は、華やかで人目をひくようになり、歳の市には欠かせないものとなったようです。
東京の開催情報
浅草寺 歳の市・納めの観音(羽子板市)
大國魂神社 晦日市
高幡不動尊金剛寺 歳の市
薬研掘不動尊 納めの歳の市
歳の市とは、新しい年を迎える準備には欠かせない行事だったことがわかりましたね。
特に、浅草寺の羽子板市は、当時の女性たちには心ときめくイベントだったようです。
現在のように写真や動画がない時代です。
羽子板に貼られた歌舞伎役者の絵を眺めるだけで、幸せな気持ちになっていたのかもしれません。
今回ご紹介した東京の神社やお寺で開催される以外にも、日本各地の神社やお寺、商店街などでも歳の市は開催されていますので、お正月に必要なものを買いに訪れてみてもいいかもしれません。
冬至
一年のうちで最も昼が短く、夜が長い日です。
冬至にはかぼちゃを食べ、ゆず湯に入るといいそうですが、これは先人たちの寒さ厳しい冬を乗り越えるための知恵のようです。
12月に入り一気に冬の寒さが厳しくなってきた頃、暦の上での季節の節目「冬至(とうじ)」がやってきます。
年末にも近づき冬の本番の時期と冬至ならではの習慣にはどういったものがあるのか調べてみました。
冬至
冬至とは二十四節気の一つで、立冬と立春の真ん中にある節気です。
暦の上ではちょうど冬の真ん中に位置し、一年の内で最も昼が短く夜が長い日です。
太陽の黄経が270度になる日の事で、毎年12月22日頃にあたります(毎年変わります)
夏至から徐々に日照時間が減っていき、太陽の高度も一年で一番低くなる事から太陽の力が一番衰える日と考えられてきました。
一年で最も日照時間が短い日と言う事は、翌日から長くなるという事でもありこの日を境に再び力が甦ってくる事から、「一陽来復(いちようらいふく)」と言って、冬至を境に運気が上昇するとも言われています。2019年の冬至は12月22日(日)でした。
冬至にはかぼちゃ
冬至には「ん」のつくものを食べると「運」が呼び込めると言われています。
にんじん、だいこん、れんこん、いんげん、ぎんなん、かんてん、きんかん、うどんなど「ん」のつくものを食べる事を「運盛り」と言って縁起を担いでいたそうです。
縁起担ぎだけではなく、栄養をつけて寒い冬を乗り切るという意味合いもあります。
冬至で食べる食べ物の中で一番有名なものは「かぼちゃ」だと思いますが、こちらも運盛りとして食べられていたものです。
かぼちゃは異名を「南京(なんきん)」といい、「ん」のつく食べ物です。さらに陰(北)から陽(南)へ向かう事も意味している為、縁起もよいとされていました。
かぼちゃの旬は夏ですが、長期保存がきくため、冬に栄養を取るのに最適な食べ物でもあります。かぼちゃは栄養面でも優れていてビタミンAやカロチンが豊富なので、風邪や中風(脳血管疾患)の予防にも効果的でした。
冬至にゆず湯
「冬至にゆず湯に入ると風邪をひかない」という言葉がありますが、冬至にはなぜゆず湯なのでしょうか。
いくつか説がありますが、まず一説に運を呼び込む前に身を清める為という説があります。
昔は強い香りの元には邪気が起こらないと言われており、冬が旬の柚子(ゆず)は香りも強く身を清めるのに最適だったようです。
寿命が長く病気に強い柚子の木にならって、ゆず湯に入り無病息災を祈る風習になったとも言われています。
実際ゆず湯には、血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防するといった効果もあるようです。
また、冬至=「湯治」、ゆず=「融通がきく」と言ったゴロ合わせで融通がきくように、という説もあるようです。
冬至は一番冬の寒さが厳しい時期ですので、かぼちゃを食べてゆず湯に入るというのは栄養を蓄えて体を温めるという先人たちの知恵だったのかもしれません。
季節の節目を大切にするとともに昔ながらの冬の乗り切り方も取り入れて私たちも元気に冬を乗り越えたいです。
上皇陛下の誕生日
2019年5月1日に平成から令和に元号が変わり、新しい天皇陛下が即位され、上皇陛下は生前退位なさいました。
「天皇誕生日」という祝日は、今上天皇のお誕生日である2月23日になり、上皇陛下のお誕生日である12月23日は、現時点では祝日にするという話はなく、平日となりました。
平日ではありますが、上皇陛下のお誕生日であることに違いはありませんので、お祝いの気持ちを忘れずにいたいです。
クリスマス
日本のクリスマスの歴史は、1552年に始まったといわれています。
途中、江戸幕府の禁教令や第二次世界大戦などでクリスマスは姿を消しかけますが、戦後に商業施設がイベントとして盛り上げ、現在に至ります。
12月になると、街中がキラキラとクリスマスの装飾で輝き始めますね。
早いところでは11月からクリスマスの飾りつけやイルミネーションで気分を盛り上げているところもあるようです。
ですが、そもそもクリスマスの起源とはどういうものなのか調べてみました。
日本のクリスマスの始まり
1552年、山口県にキリスト教の宣教師としてやってきたフランシスコ・ザビエルが信徒を集めて12月24日にミサ(カトリック教会で行われる祭儀)を行ったことが始まりだと言われています。
1560年ごろ、京都にキリシタンら100人ほどが集まり、盛大な降誕祭(こうたんさい・聖人や偉人などの誕生日を祝う祭典)を行ったという記録があります。
また、1568年にはイエズス会士ルイスフロイスによって「織田信長と松永久秀がクリスマスに一時休戦した」という記録も残っていることから、日本でも各地でクリスマスが行われていたと考えられます。
しかし、江戸幕府が1612年に禁教令(キリスト教禁止令)を発令し、一旦クリスマスは姿を消してしまいます。
その後、明治6年(1873年)に禁教令が解かれ、クリスマスも復活します。
そして、信徒以外にも少しずつ、クリスマスにちなんだお話や歌などが広まっていったようです。
明治37年(1904年)に、銀座の「明治屋」が商業用のディスプレイとして初めてクリスマスツリーを店頭に飾り、大きな話題を呼んだことで一般的に広く知られるようになりました。
明治43年(1910年)には「不二家」がクリスマスのデコレーションケーキを発売し、大正8年(1919年)には「帝国ホテル」が一般客向けのクリスマスパーティを開催。その後も次々とデパートやホテルでクリスマスの装飾や販売が始まり、日本中に広まっていきました。
昭和になってから、銀座や渋谷、浅草などの喫茶店やレストランがクリスマスに因んだメニューを取り入れるようになりました。
第二次世界大戦が始まり、クリスマスは一時下火になったものの、戦後になると再び活気を取り戻し、現在では、テーマパークやデパートなど早いところでは11月初旬からクリスマスの装飾が施され、クリスマスイベントやクリスマスセールを開催しています。
このように日本では宗教的な理由ではなく、商業イベントとして盛大に行われるようになり、国民的行事として定着しました。
クリスマスの起源と歴史
クリスマスは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う日です。
12月25日がイエス・キリストの誕生日というわけではなく、キリスト教では「キリストの誕生を記念する日」と位置付けられているそうです。
(キリストの誕生日は不明とされています。)「クリスマス」という言葉は、「クリスト(Christ)・マス(mass)」という意味です。
クリストはキリスト、マスはミサのことで、キリストの「降誕祭」のことです。
なぜ12月25日なのか・・・古代ローマ帝国では「ミトラ教」というものが信仰されていたそうで、その主神が「ミトラス」でした。ミトラスは、太陽神の性質をもっています。
この「ミトラ教」の大事な催しが「冬至」のお祭りで、12月25日でした。
冬至を境に日が長くなっていくことから、ミトラ教では12月25日を「太陽神が再び生まれる日」としてお祝いし、祭典を行っていたのです。
その後、ローマ帝国がキリスト教を導入した時にミトラ教やほかの土着の宗教と争うことなく平和的に融合しようと考え、325年に開かれた教会会議で正式に12月25日をキリストの誕生を祝う日と決定したそうです。
そして、キリスト教が世界中に広がるとともに、12月25日のクリスマスはキリストの誕生を祝う日としてクリスマスは広がっていき、盛大にお祝いをするようになりました。
日本と外国の違い
人それぞれですが日本では一般的に、クリスマスにはケーキやチキンを食べたり、サンタさん(親)が子供たちにプレゼントを持ってきてくれます。
家族だけではなく、パートナーや友人たちとパーティをしたり、プレゼントを交換したり、ロマンチックな雰囲気で過ごす人たちも多いです。
日本では、クリスマスよりも12月24日のクリスマスイブがメインなっているようです。
では、キリスト教徒の多い欧米諸国ではどうでしょうか?
クリスマスのメインは12月25日です。その前後でクリスマス休暇というのもあります。
普段は離れて暮らしている家族や親戚が集まり大勢で盛大にお祝いをします。
七面鳥や牛肉、羊肉などたくさんのご馳走を準備し、24日から25日にかけておしゃべりを楽しむそうです。12月25日はお店はほとんど閉まっているので、自宅で過ごすのが一般的だそうです。
12月10日ごろからクリスマスカードを送ったり、12月いっぱいはクリスマスの装飾をしたりします。
クリスマスプレゼントは、クリスマスツリーの下に家族全員分置いておき、25日の朝に家族全員で一斉に開けます。
プレゼントの数も一人に1個ではなく、2個~3個、多い人は10個以上もらうなんてこともあるそうです。
そして、クリスマスはキリスト教の行事とされているため、キリスト教徒ではない人たちは普段とかわらない休日を過ごすそうです。
クリスマスの過ごし方が、日本と外国では随分違うので、日本のクリスマスをみた外国人はみなさん不思議に思うことがあるそうですよ。
それは「七面鳥ではなくチキン(鶏)を食べる」「ショートケーキを食べる」「プレゼントは一人ひとつ」「クリスマスイブがメインの日」「家族ではなく恋人と過ごす」「クリスマスが過ぎればすぐにお正月準備」などです。
日本では七面鳥ではなくチキンを食べるのは、実は、ケンタッキー・フライド・チキンの企業戦略なのだそうですよ。
日本ではクリスマスにはケンタッキー・フライド・チキンが大行列ができるほど売れますが、アメリカでは一年で最も売り上げが下がる時期なんだとか。
日本も海外も元々は同じ「クリスマス」だったはずなのに、日本では時代の流れとともに独自の進化をとげ、今のように日本全体が盛り上がるイベントになったのです。
さまざまな宗教を受け入れ、他宗教の行事も楽しんでしまうのは、いかにも日本人らしいです。
紅白歌合戦
紅白歌合戦の歴史と由来と歴代視聴率の推移 について調べてみました。
大晦日には、家族みんなで「紅白歌合戦」を見る!紅白歌合戦を見ないと、新年を迎える気持ちにならない!などなど、昭和26年(1951年)に始まったNHKの紅白歌合戦に思い入れのある方もいらっしゃるかもしれません。
女性アーティストを紅組、男性アーティストを白組に、時には海外アーティストも参加する国民的人気番組です。
紅白歌合戦の歴史と由来
正式名称は「NHK紅白歌合戦」で、通称「紅白」と呼ばれています。
終戦直後の昭和20年(1945年)、「新時代に相応しい歌番組を作ろう」という考えのもと、大晦日に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送されました。
剣道の紅白試合を念頭に置き、娯楽の要素も取り入れた番組を制作しようとし、当初は「紅白音楽合戦」という番組名だったのですがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「敗戦国がバトル(合戦)とは何事だ」と指摘され、バトル(合戦)からマッチ(試合)に変更しました。勝敗の判定はなく、審査員もおらず、応援団も存在しなかったそうです。
「紅白音楽試合」は、この年、1回のみの放送になっています。
その後昭和26年(1951年)1月3日に、正月番組としてラジオで「第1回NHK紅白歌合戦」が放送されました。この時は1時間番組で、出演者は紅白それぞれ7組でしたが大変好評で、昭和27年の第2回、昭和28年の第3回は90分番組になり、それぞれ12組が出場しました。
第四回は昭和28年12月31日に放送され、大晦日の放送が定着しました、
大晦日に定着した理由ですが、当時、大規模な会場は年末年始では大晦日しか開いていなかったことが一因とされています。また、大晦日のほうがトップ歌手を確保しやすいという理由もあったようです。
第4回でテレビ放送が開始され、選手宣誓や優勝旗の返還、授与など、視覚的な演出も行われるようになりました。
その後、テレビがカラーになったことで、出場歌手の衣装やスタジオセットが色鮮やかになり、特に紅組は衣装を重視するようになったそうです。
その後も、時代に合わせた演出を取り入れ、その年活躍した人や翌年の活躍を期待する人に審査員をしてもらったり、会場から中継をして別の場所にいる国内外のアーティストに出演してもらったりと、試行錯誤を繰り返しながら現在に至っています。
歴代視聴率の推移
第12回までは、視聴率調査が行われていませんので、第13回からの視聴率を調べてみましょう。(関東地方での視聴率です)
●昭和37年(1962年)第13回 80.4%
この年から視聴率調査が始まりました。植木等さん、吉永小百合さんなど14組が初出場でした。
●昭和38年(1963年)第14回 81.4%
翌年(1964年)の東京オリンピックを意識し、渥美清さんが聖火ランナーとして入場しました。
●昭和39年(1964年)第15回 72.0%
この年から、カラー放送が開始されました。
●昭和40年(1965年)第16回 78.1%
美空ひばりさんがレコード大賞を受賞した年で、紅組のトリを務めました。
●昭和41年(1966年)第17回 74.0%
ビートルズが来日した年で、グループサウンズやフォークソングが流行しました。
●昭和42年(1967年)第18回 76.7%
グループサウンズが大流行しました。
●昭和43年(1968年)第19回 76.9%
これまでは男女それぞれ一人ずつ司会がいましたが、この年から総合司会が加わり、3人体制になりました。
●昭和44年(1969年)第20回 69.7%
アポロ11号が月面着陸をした年です。その時通訳として活躍した西山千氏がヒューストンからのメッセージを同時通訳しました。
●昭和45年(1970年)第21回 77.0%
美空ひばりさんが司会者となり、和田アキ子さんが初出場を果たしました。
●昭和46年(1971年)第22回 78.1%
翌年(1972年)に札幌オリンピックが開催されることから、選手村との中継を行いました。
●昭和47年(1972年)第23回 80.6%
東京宝塚劇場からの放送はこの年が最後になりました。
●昭和48年(1973年)第24回 75.8%
この年から、新しくできたNHKホールが会場になりました。
●昭和49年(1974年)第25回 74.8%
高1トリオ(山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さん)が揃って話題になりました。
●昭和50年(1975年)第26回 72.0%
宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」が大ブームになった年で、会場には月組が登場しました。
●昭和51年(1976年)第27回 74.6%
フランク永井さんと、島倉千代子さんが、連続20回出場を達成しました。
●昭和52年(1977年)第28回 77.0%
ゲストとして、プロレスの「ビューティ・ペアー」が登場しました。
●昭和53年(1978年)第29回 72.2%
演歌で目立ったヒット曲がなく、ニューミュージックブームが到来しました。
●昭和54年(1979年)第30回 70.0%
山口百恵さんは翌年引退したため、この年が最後の紅白出場となりました。
●昭和55年(1980年)第31回 71.1%
松田聖子さんや田原俊彦さんなど、アイドルの活躍が目立ちました。
●昭和56年(1981年)第32回 74.9%
客席の審査を数えるために、「日本野鳥の会」がカウントをはじめました。
●昭和57年(1982年)第33回 69.9%
サザンオールスターズが奇抜な衣装で大活躍しました。
●昭和58年(1983年)第34回 74.2%
「笑っていいとも!」で活躍していたタモリさんが、総合司会になりました。
●昭和59年(1984年)第35回 78.1%
都はるみさんが引退のため、最後のステージとなりました。
●昭和60年(1985年)第36回 66.0%
森昌子さんが森進一さんと結婚し引退ということで、最後の紅白出場になりました。
●昭和61年(1986年)第37回 59.4%
白組司会の加山雄三さんが、初出場だった少年隊の「仮面舞踏会」を「仮面ライダー」と紹介し、話題を呼びました。
●昭和62年(1987年)第38回 55.2%
視聴者の好みの多様化により、クラシックやシャンソン、ロックなども。
●昭和63年(1988年)第39回 53.9%
オペラ、ミュージカル、ジャズ、民謡・・・昭和最後の紅白は、バラエティーに富んでいました。
●平成元年(1989年)第40回 1部38.5% 2部47.0%
この年から、2部構成になりました。1部では「思い出のメロディ」を、2部ではこれまで通りその年にヒットした曲でした。
●平成2年(1990年)第41回 1部30.6% 2部51.5%
ベルリン、ニューヨークからも中継をし、国際的スターも出場しました。
●平成3年(1991年)第42回 1部34.9% 2部51.5%
SMAPが初出場を果たしました。
●平成4年(1992年)第43回 1部40.2% 2部55.2%
チェッカーズが解散のため、最後のステージでした。
●平成5年(1993年)第44回 1部42.4% 2部50.1%
福山雅治さんが初出場を果たしました。また、Jリーグ開幕の年でもあり、サッカーコーナーが設けられました。
●平成6年(1994年)第45回 1部40.1% 2部51.5%
美川憲一さんと小林幸子さんの衣装対決がエスカレートしていきました。
●平成7年(1995年)第46回 1部44.9% 2部50.4%
安室奈美恵さんが初出場を果たしました。
●平成8年(1996年)第47回 1部41.6% 2部53.9%
史上最年少司会者として、松たか子さんが起用されました。
●平成9年(1997年)第48回 1部40.2% 2部50.7%
安室奈美恵さんが、産休前にトリを務めました。
●平成10年(1998年)第49回 1部45.4% 2部57.0%
産休明けの安室奈美恵さんが涙を流す場面がありました。
●平成11年(1999年)第50回 1部45.8% 2部50.8%
解散を控えていたSPEEDに注目が集まりました。
●平成12年(2000年)第51回 1部39.2% 2部48.4%
10年ぶりにピンク・レディが出場し、氷川きよしさんが初出場を果たしました。
●平成13年(2001年)第52回 1部38.1% 2部48.5%
司会陣が、45年ぶりにNHKアナウンサーだけで担当しました。
●平成14年(2002年)第53回 1部37.1% 2部47.3%
BSデジタル放送による「お茶の間審査」がスタートしました。
●平成15年(2003年)第54回 1部35.5% 2部45.9%
SMAPが初のトリを務めました。
●平成16年(2004年)第55回 1部30.8% 2部39.3%
アテネ五輪が開催された年で多くのメダリストが招かれました。
●平成17年(2005年)第56回 1部35.4% 2部42.9%
戦後60年という節目の年で、平和のメッセージを伝えました。
●平成18年(2006年)第57回 1部30.6% 2部39.8%
ワンセグからの投票がスタートしました。
●平成19年(2007年)第58回 1部32.8% 2部39.5%
この年に亡くなったZARDの坂井泉水さんのフィルムコンサート中継が行われました。
●平成20年(2008年)第59回 1部35.7% 2部42.1%
特別企画として、アイルランドからエンヤさんが中継で登場しました。
●平成21年(2009年)第60回 1部37.1% 2部40.8%
60回となる記念大会で、還暦を迎えた矢沢永吉さんがサプライズゲストで登場しました。また、嵐が初出場を果たしました。
●平成22年(2010年)第61回 1部35.7% 2部41.7%
病で活動休止していた桑田佳祐さんが、紅白で完全復活をしました。
●平成23年(2011年)第62回 1部35.2% 2部41.6%
東日本大震災が起きたこの年、東北応援企画として東北3県から中継を行いました。
●平成24年(2012年)第63回 1部33.2% 2部42.5%
美輪明宏さんが、77歳で初出場を果たしました。
●平成25年(2013年)第64回 1部36.9% 2部44.5%
50回出場という記録を打ち立てた北島三郎さんが出場勇退をしました。
●平成26年(2014年)第65回 1部35.1% 2部42.2%
副音声「紅白ウラトークチャンネル」をバナナマンが盛り上げ話題になりました。
●平成27年(2015年)第66回 1部34.8% 2部39.2%
特別企画で出演した小林幸子さんが、ネットと連動した衣装と演出で話題になりました。
●平成28年(2016年)第67回 1部35.1% 2部40.2%
年内で解散するSMAPが、紅白歌合戦を辞退しました。
●平成29年(2017年)第68回 1部35.8% 2部39.4%
2018年9月に引退を予定している安室奈美恵さんが特別企画で出演しました。
●平成30年(2018年)第69回 1部37.7% 2部41.5%
平成最後の紅白歌合戦ということで、平成という時代を振り返るような内容でした。
●令和元年(2019年)第70回 1部34.7% 2部37.3%
令和最初の紅白歌合戦ということや、AIの美空ひばりさんが出場するなど、話題になりました。
視聴率を見てみると、80%を超える時代があったことに驚きます。それだけ娯楽が少なかったのでしょうか。
ここ数年は40%を超えればいいかな・・・という感じですが、昔と比べて大晦日に家でテレビを観る人が減ったことや、ほかの番組を観る人が増えたことなど、いろいろな理由があるのでしょう。
終戦直後の昭和20年(1945年)にラジオ番組として始まった紅白歌合戦。(当時は紅白音楽試合というタイトルでした)時代に合わせた演出を取り入れ、試行錯誤を繰り返しながら現在に至り、大晦日の風物詩となっていましたがここ数年では、バラエティ番組、ライブ、格闘技など年末は紅白とうのは少し変化してきています。
時代に合わせて変化している紅白歌合戦、今後も老若男女が楽しめる番組として頑張ってほしいですが今の放送局の体制をみると期待薄かもしれません。
受信料ばかりの話題で番組が話題の中心になることがほとんどないのが現状だとおもいます。
除夜の鐘
「除夜」とは「大晦日の夜」という意味があります。
除夜の鐘をつき、その音を聞くことによってこの1年のうちに作った罪を懺悔し、罪を作る心を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新年を迎える為の行事なのだそうです。
一年の締めくくり大晦日には、年越し蕎麦を食べたりテレビを見ていたり様々な過ごし方をしていると思いますが除夜の鐘の音が聞こえてくるといよいよ1年が終るなとしみじみ感じます。
毎年大晦日の夜に鳴らすこの除夜の鐘、いったいどういった意味と鐘をつく回数や時間帯に決まりを調べてみました。
除夜の鐘
まず除夜の鐘とはどういった意味なのでしょうか?
「除夜」とは除日の夜の意味で、除日は古い年を除き去り、新年を迎える日という意味で、12月31日の大晦日の夜の事を言います。除夜につく鐘なので除夜の鐘と言うんですね。
鐘をつく回数108回とされており、この108回という数の意味には諸説あります。
人間の煩悩の数が108つとされ、この煩悩を祓うという意味という説が一番有名ですね。
除夜の鐘をつき、その音を聞くことによってこの1年のうちに作った罪を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新年を迎える為の行事なのだそうです。
鐘のつき方やつく時間帯は地方や寺院によって違い、「年内に打ち終えて清浄の身となって新年を迎える」という所や、「年内に107回打ち終えて、新年を迎えてから最後の1回を打つ」という所、「大晦日から新年にかけて年をまたいで108を打つ」という所などがあります。
108回の意味
人間の煩悩の数が108つと言われ、除夜の鐘ではその108つの煩悩を祓うと言われていますがそもそもその煩悩とはどういったものなのでしょう。
仏教の中の言葉で、心身を悩まし苦しめ、煩わせ、惑わし汚す精神作用のような意味です。心の乱れを生み出すものというような意味もあるようです。
煩悩の内容についても諸説ありますが一説には、「六根(ろくこん)」と言われる人間の体全体の働きを現わす「眼・耳・鼻・舌・身・意」というものにそれぞれ「好(コウ)・悪(アク)・平(ヘイ)」(良い・悪い・どちらでもない)という三種があり、まずこれで「18」。
さらに「六塵(ろくじん)」と言われる人心に入って清らかな心をけがすものとして「色・声・香・味・触・法」というものにそれぞれ「苦(ク)・楽(ラク)・捨(シャ)」(苦しい・楽しい・どちらでもない)という三受(サンジュ)があり、こちらも「18」。
それぞれを合わせて36個となり、さらにそれぞれを三世(サンゼ)「過去・現在・未来」の分として数えた数が「108」になると言われています。
また108の数は一年間を表すという説もあり、月の数が「12」、二十四節気の数が「24」、七十二候(古代中国で考案された季節を表す方法)の数「72」を足した数が「108」になる為、1年をあらわすとされています。
さらに四苦八苦が由来となっている説もあり、四苦=”4×9”、八苦=”8×9”がそれぞれ36と72になり足して「108」という考え方です。
除夜の鐘はその寺院の僧侶の方がつくところもあれば、寺院によっては参拝客につかせてくれる所もあるそうです。
もしお近くにつく事が出来る場所があれば、今年は自分の手で鐘をつき、煩悩や穢れを祓って清らかな気持ちで新年を迎えられるのいいかもしれません。
こうしてまとめてみると、12月は下旬にイベントや行事が集中しているように感じます。
クリスマスは外国から伝わってきた文化ですが、現在は日本独自の進化を遂げ、老若男女が楽しむイベントとなっています。お正月準備もしないといけないのに、その前にクリスマスがあってあれやこれうや大変と思う人も多いとおもいます。
忙しい中でもイベントや行事を楽しむ余裕を持ち、一年の締めくくりをしてはいかかでしよう。なかなか難しいですが。
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